2018/11/12

存在は地味だけど買ってみたスマートプラグ

うちの家、 入居したときに改修をおこなって 実は寝室として使ってる部屋には照明が元々ついてましたが 難点は スイッチが部屋の外にあるという面倒な仕様になっております。

なので、スタンド式のランプを置いてあるのですが いつもは 叔母が引越の際にいらなくなったという コードの先にタイマーがついている タイマースイッチをつなげてました。
寝る前に、毎回タイマーをまわしてセットしてから寝てたんですが 忘れてしまうこともしばしば。
こんなやつです。ブランドがナショナルになってますかなり古いものと思われます。

真っ暗じゃないと眠れないって人ではないので 構わないのですが 真っ暗のほうが なんか熟睡できるような気がします。

しかし、毎回セットするのも億劫になったのと あと夜遅く部屋に入るときは 部屋の中が真っ暗なので
部屋の外でスイッチをいれ 部屋全体の照明をつけタイマーをセットしてスタンドランプの照明をつけてから 部屋の外のスイッチを切るという事をやってました。

休みの日、電器店でスマートプラグというものが 売られていたので 存在自体は知ってましたけど 店頭で買って帰ればすぐに使えるということで 試しにひとつ買ってみることにしました。
値段のほうは4,000円弱でしたが…

持ち帰り、まずは設定をしないといけないのですが さすがに説明書をみないとわかりません。
アプリをダウンロードしてユーザー登録してという具合に順調にすすみましたが スマートスピーカーでも使いたいので連携をするには 説明書にはヘルプのサイトをみるように書いてましたから
みてみると 日本語ではありませんでした。それでもなんとなく出来た感じです。

設置は壁のコンセントにさしこんで それに制御したい機器をつなげばいいのですが存在自体は地味です。
しかし、機能はシンプルに通電させるかさせないかですが Wi-FiによってスマホでONOFFが出来たり、タイマーの設定ができたりと 欲しかった機能が手に入りました。
設置したらこんな感じです。ちょっと邪魔かな?

最初はこのプラグの名前を「照明」にしてましたが、スマートスピーカーで声で操作するときに 簡単に呼びやすくするために「でんき」という名前に変更しました。
これによってスマートスピーカーに「でんきつけて」「でんきけして」と言うだけで 動作します。

また、プログラムタイマーの設定ができるので 今まで何分後かに切れるようにダイヤルをまわして設定していた動作が、スマホで毎日2時になれば OFFにするという設定をしました。
普段、0時から2時頃までに寝付くので 2時くらいが妥当だと思ったからです。

あと、まぁ使うかどうかわかりませんが 外出先でもスマホでONOFFの操作が可能なので まだそのような状況になってないのでわかりませんが 便利です。
しばらく、使ってみて良かったら今度は Tivoliのラジオ用にもう一つ買おうかなと思ってます。


2018/07/10

大雨

ニュースを見てると、以前暮らしていた広島市等 今回 降り続いた雨の被害 そしてたくさんの方が亡くなられ 未だ見つかってない方もいるそうで 自然災害はホントに怖いと思いました。何年か前も広島で暮らしてた時に アパートの裏に川が流れてて そのときも水位があがってきて 恐怖を感じました。

今は福岡県に暮らしてますが 幸い自分自身には被害もなく雨は通りて行きましたけど 正直 不安もありました。特に降り止まない大雨。川が氾濫するんじゃないかと思えました。
7月4日 この日は法務局に行ったのですがまだ雨の気配はありません。

7月5日 朝 すでに雨は降り始めてましたが 強い雨ではありませんでした。

7月5日 仕事の帰り。夕方です。車のワイパーを一番早く動かしても追いつかない感じで雨が強くなりました。

7月6日 朝 雨はやむことなくずっと降り続いてます。

7月6日の午後 職場の倉庫の床ですが浸水してきました。床がくぼんでるため長靴を履かないと足首より上まで濡れます。

7月7日 朝。ようやく雨が弱くなりましたが 晴れ間はありません。

7月8日 夕方 ようやく晴れ間が現れました。

7月9日 この日も昨日から雨がやんで晴れてましたが 近所に流れる川はこのように濁って水位もかなり高くなっています。
7月10日 気温は30℃を超え 猛暑になりましたが 土砂崩れ等 近所の被害が明らかになってきました。
 実は 職場は2枚目とか4枚目の画像に 写ってるとおり 木造の柱に軒が 波板なので雨が強く降ると 音がひどく 話し声も聞き取れないのです。電話がかかってきても よく聞こえなくて困りました。

2018/06/25

体組成計を買い直した。

最近、なんか作業ズボンを履くと キツくなってきたなと感じてましたが やはり体重も増えてました。昨年 MAX95kgだった体重を86kgまで下げたんですけど しばらくはキープ出来てたのが 徐々に増えて90kgを前後しています。

測定出来ない事はないですが足のサイズがでかい人ははみ出ます。
しかし メーカーのほうではゆったり乗れる25cmと書いてある。
パナソニック体組成バランス計 EW-FA43
家ではパナソニックの「体組成バランス計」というものを使って 体重や体脂肪率、BMI等 スマホのアプリに転送して記録してました。
難点は、以前はスマホがXperiaだったのでよかったのですが iPhoneにはそのアプリがないので手入力しないといけない事と 体重計ののっかる時にその面が小さかった事です。

表示はカラーで見やすくていいのですがスマホにデータを転送するのも体重が落ちてから面倒になったのでやめてました。
なので 足の小さい人にこれは譲る事にして
iPhoneにも対応した乗る面が少しおおきな物を購入する事にしました。

すぐに思いつくのは タニタとオムロンですがタニタから選ぶ事になりました。海外製のものもあったのですが それにしても対応してる製品はそれほど多くはないようです。

週末、大型の家電店に行きましたが1軒目は スマホ連携できる製品の展示品さえもなし2軒目はオムロンの旧型だけありました。3軒目は展示はされてなかったのですが最新機種ではないけどタニタのデュアルタイプ体組成計インナースキャンRD-902の黒が残ってましたのでそれを購入しました。
今回購入した型落ちなのでちょっと安い
タニタのデュアルタイプ体組成計インナースキャンRD-902

型番の最新は906とか907だからずいぶん前のモデルだと思います。見た目はそう変わりはないです。
買ってきて 開封したら単4電池が4個付属してますのでそれを入れ iPhoneに専用アプリをインストールしたら 画面の説明にそってiPhoneと体重計のペアリングや身長、生年月日などを入力したらあとは 測定するだけです。
体重計に乗ったときに 家族が数人いれば 誰だかわからないのですが「乗るピタ」という機能で4人まで登録出来るようです。
ちなみに RD-902の本体でみれるものは

  • 体重
  • BMI
  • 体脂肪率
  • 筋肉量
  • 筋質点数
  • 推定骨量
  • 内臓脂肪レベル
の 7項目で アプリ上では
  • 基礎代謝量
  • 体内年齢
  • 体水分率
の3項目ですが どの数値がいいのか 説明書をみないとなんのこっちゃわかりません。


2018/06/08

1963年生まれ生まれ故郷に戻るちょうど45才。


2009年の正月 ホテルの仕事が正月の間 忙しいので長年お世話になったこともあり そこまで働き 生まれ育った福岡に戻ります。

1Kのアパートでは 荷造りもおわり ベッドはもらってくれる人がいたので あげました。あと大型のゴミは 以前勤めてたリサイクルプラの工場が取り扱ってるので 中のよかった人に連絡して引取に来てもらいました。残りは引越屋さんにたのんで 格安に九州まで運んで 自分は軽自動車があるのでちょっとした荷物とのんびり九州まで運転して帰りました。時間は5時間ほどでついたと思います。

高速道路にはいる手前に 働いてたホテルがあるので ちょっと寄って挨拶をしていくことにしましたが、時間帯が悪かったのか ひとりしか会えませんでしたが 最後のお別れです。そのひとは 見送ってくれました。
山口JCTは周囲は山ばかりで静かなところです。
遠くの緑をみると目にいいといいますが 景色に飽きてきます。
九州に帰るには高速道路は 中国道と山陽道どちらでもよかったのですが(途中合流しますけど)車の少ない中国道を利用して関門橋をわたり 九州にはいりました。
そこからがまた距離があって長いのですが だんだん見覚えのある風景が近づいてきたけど 何年間も離れてたので 建物やあったものがなくなっていたり 新しいものが出来てたり 一瞬道を間違えそうになりました。卒業した高校も統合され名前が変わっていたり、町が合併して名前が変わってたり戸惑う事もありました。
そして、方言がよみがえってきます。
「おかえり~ くたびれたやろ。」そんな感じで姉や母が出迎えてくれました。
引越屋さんに頼んでた荷物はすでに 届いていたのですが さしあたって急いで開封するのは着替えくらいだったので 他のものはそのままにしてました。
数ヶ月後、足りない荷物があるのに気がついたけど その荷物はあってもなくてもよかったものなので 諦めました。
建設業の会社なので数日、現場の状況をしるために作業員として
一週間ほど行ってました。言われたことだけをやってればいいので気が楽です。
しかし、ちょうど冬場だったのでかなり寒かったです。
姉の務めてる建設関係の会社で働くことになりました。

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2018/06/05

1963年生まれ派遣会社にはいり自分の老朽化を自覚する。


意地を張って辞めたから 働くところがなくなってしまいました。週に1回 ホテルのバイトがあるだけで 他の日は 暇です。新しい会社の面接といっても 工場関係はほぼ 派遣社員のみで えり好みしてる場合じゃないと悟り 派遣会社にはいりました。
当時は 派遣会社がブームみたいでした。

その間、面接やら 連絡待ちの日もあって 暇なのでパチンコに明け暮れます。
パチンコで生活できるんじゃないかと 錯覚にも陥りましたが 負け出すと早いです。

そして 派遣会社から紹介された工場は また車の部品を作るゴムの工場です。前の会社のおそらく下請け会社なのかもしれませんが 作業は似たりよったりでした。
派遣社員は なんか肩身が狭く 昼食も社員食堂を使ってもいいとは言われましたが 他の派遣社員はひとりとして 使ってる人も居なかったので 僕もみんなと同じように 車の中とかで食事をしてました。

でも、利点としては 時間にピッタリで休憩時間や終わりの時間には作業途中でもあってもピッタリやめさせられます。残業手当など賃金が発生するからだと思うんですけど ここは徹底していました。
派遣会社にはいると 社会保険もありましたし 時間もピッタリで しかも 賃金は働いた分の半分を毎週 口座に振り込んでくれ 残りは月に一度まとめて支給されるという形だったので便利だったのですが 何ヶ月か働いているうちに とうとう 身体が不調になり 胸が痛くて手があがらない様な状態になりました。
胸が痛くて腕をあげれないようになりました。
このときは ほんとに不安になってました。
原因はわかりませんが こんなことで休んで派遣先の会社に迷惑をかけれません。しばらく我慢して働いていましたけど 自分で限界だと感じ長期休暇を取る事にしました。派遣先は 治ったら復帰してくださいとは言われてましたけど 派遣会社はいらないとなるでしょう。社会保険とかの関係もありますから。

そして 現実的に身体の老朽化を認識しだしました。派遣の仕事をしてる時に10才ほど若い人がいたのですが 一緒に仕事をやってて体力的にかなわないというように 自覚しはじめました。いくら見た目を若くしても老朽化はとまりません。
自分の身体で 一番不便に感じるのは 老眼で もともと1.5とか2.0とか視力検査の結果で子供の時から よくみえる人だったのですが 細かい文字や黒以外の赤い文字や青い文字が見えづらくなりました。くっきり見えないという感じです。このころはまだ なんとなく見えにくいって感じでした。
体力が落ちたのは明らかで 外面的にはこんな状況です。
他人からみると太ってる様には見えないらしいですが終わってます。
次に髪の毛。太くて多かった髪の毛も細くなり 突然ではないですが額もひろく頭頂部の薄毛の進行が早くなります。しかも 白髪が急に多くなります。たぶん 自分は真っ白になるかなくなってしまうか両方要素を持ち合わせてます。他には健康診断で異常値が出るというようなことは全くなかったのですが コレステロールや中性脂肪の異常値が容赦なく出てくるようになりました。幸い再検査の診断は出たことないですが これから先はわかりません。あとは肌やしわ、筋肉の衰え、男の力など一般的に例外なく老朽化の症状があります。それと 忘れる事も多くなります。不思議なことに小中学の頃の同級生の名前は ほぼフルネームで覚えてるの(生きてきたうちほんの数年過ごしただけなのに)に 年令を重ねる毎に 間近に会った人の名前が覚えきれません。ただ、大きな病気もせずに五体満足に産んでくれた両親には感謝しますと思うようになったのもこの頃で、一晩 ぐっすり寝ても HPは全回復しないそんなふうに思うようになりました。

ちょうど その頃 九州の姉から連絡があり 姉の働いてる会社がパソコンを使える人を探しているとか 九州に帰ってくることを言い聞かされます。ホテルの社長もずっときてくれるなら 僕が働けるように他の人を断って使ってくれるとまで言ってくれましたが 断られる人に気の毒いし 九州の生まれ育った土地に帰る決心がつきました。45才になってます。18でこの地を出て27年間 他の土地で過ごしたことになります。

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2018/06/04

1963年生まれケツを割って帰る。

リサイクルプラの再生工場を辞めなかった者は1年間 遠く離れた工場で 応援という形でそのまま務める事ができるようになったらしいが 僕はそれは ホテルのバイトの勤務に支障をきたすので はなから辞めるつもりでした。

そして 数人で面接にいった自動車の部品をつくる会社に行ったのですが、ここは 十数年務めてるパートのおばちゃんとか 社員がいますから上下関係は当然ありますので 前みたいな気持ちで働く事はできませんし、自分の意見も通りません。
仕事内容は単純といえば単純なんですけど スピードが求められます。
最初のうちは 慣れないので数をこなすことが出来ませんでしたが段々と慣れてくると数がどんどん増えます。
作業自体は難しくはないが スピードを要求される。
あと 手が腱鞘炎になりやすい。
性格とかによると 思うんですが 僕みたいに 人に負けたくないという気持ちでやってると たしかに仕事は慣れて数が増えてくるんですけど まわりの社員をみてると 数を制限してるように見えてきました。たしかに作業の遅い人もいましたが そうでない人はやり過ぎると仕事が増えるのである程度調整してるようです。
最初は、必死でやってましたけど ひと月もするとまぁ 普通にできる様になり もともと動作の遅い社員が 時間内にできそうにない時は 手伝いをしてました。
これは 仇となってかえってきます。

工場が2箇所あって 本工場と副工場では 本工場にいれば 日勤のみで単純に数をこなしていけばよかったのですが 副工場では2交替勤務になり 作業がちょっと複雑になります。当然 数もこなさなければならないのですが ここも慣れればやっていけそうです。
ある日、辞令が出て 副工場に行くようになりました。リサイクルプラの工場からきた仲間ひとりも一緒に行くことになったので 心強いですが ここの夜勤の責任者というかたぶん役職がついてたと思うんですけど この責任者に問題があります。
まずは、仕事に行った時に 「おはようございます」とか あいさつしても 下向き加減で返事もしない。それは 全ての作業員に対してそうです。
責任者には不適合と思った。
みんな自由勝手になってたのは この人のせいだとすぐにわかる。
そして 作業がはじまる前に どこの作業をするとか指示があるはずなんですけど 一冊のノートに書いてあって 各自そのノートを見て作業にとりかかるようになってました。
そのノートは その責任者が書いてるものです。

作業中は、工場の隅っこのほうでその責任者が ひとりもしくは 女の子ひとりと作業をしてて 他の作業に目を配る事は全くしません。
途中 休憩時間があるのですが 10分の休憩時間のはずが 夜勤の時は 30分以上 ひどいときは1時間くらい作業をしません。新人だけが 時間をまもってやってました。
それにたいして 責任者は 隅っこのほうにいて休憩所にはもどってきませんから 注意もしないし 知っててもなにも言わないという人でした。

年令的には 僕より年下なので30代だと思うんですけど この会社にはいって長いので責任者になってるのだと聞きました。噂ではこの人うつ病と聞きましたけど。

ある日、僕はその人に怒りが爆発してしまいます。ノートを見てその日の仕事をちゃんとしてたんですけど 責任者が間違ってたらしく めずらしく作業中に近寄ってきて初めて口頭で指示を受けました。作業がはじまる前に口頭でみんなに指示すれば防げた事なんです。 すでにノートに書かれてた作業は進めていたのに やり直してくれと言ってきたから 口論になりました。はじめる前に みんなの前に顔を出してなんで説明しないのかとか そんな感じだったと思います。改めないようなら 自分は今日はもう作業をやめて帰るし このような作業場では働けないといって 途中から帰りました。
仕事を途中から投げ出して帰った」とかいうのは 今迄やったことなかった初めての事でした。「ケツを割って帰る」という事です。

翌日、本工場の工場長などに呼び出されて事情を聞かれました。
すべて 夜勤の状況を包み隠さず 話しましたし 責任者の事も話しました。工場長はその事実を全く知らなかったようで 課長や係長などを集めて会議をしたようです。
僕は、長年働いてきたその責任者やそのまわりでサボって働いていた人達からの恨みをかったようなものですが ダメなものはダメだとしないと 真面目に働いているものがかわいそうだし 長年働いてるだけで責任者にして 決めた工場長に問いかけました。

工場長は 彼の事をかばう事もしませんでした。そのあと数日間 僕は日勤の仕事を与えられやってましたけど 工場長には 僕ひとりのために夜勤の作業者の輪を壊すと仕事にも差し支えるので 僕はここで働くのはムリだから数日後には辞めると言っておきました。

その数日のあいだに 工場長をふくめ係長クラスの人が夜勤の実態とその責任者の事を 調べていたようで 僕の言ったことが本当の事だとわかったときに 工場長が頭をさげて謝りに来たんですが 辞める気持ちは変わりせん。最初に日勤の時に働いてた時 仕事を教えてくれた人が 毎日とっかえひっかえ 休憩時間に僕のところにきて なんの用だろうと思ってたんですが 本工場にもどって一緒に働こうと言ってきます。 
なんで あなたが言ってくるんですか?みたいな ほとんど会話もしたことない社員が帰りに駐車場で待ってて言ってくる事もありました。駐車場は 本工場と副工場は別の離れた位置にあるので 待ち伏せてたのは間違いないと思います。
工場長の指示かとも 思いましたが もう気持ちが離れたから僕には受入は無理でした。

2018/06/01

1963年生まれ夜型生活を抜けるために行動を起こす


ホテルで働いていた頃 それとなく社長には話しておいた事がある。このままずっとこの仕事をやれないと思うと。
ホテルの社長夫妻は とてもよくしてくれたし なんの不満もなかったが 夜勤ばかりの日光に当たることもほぼない生活から抜け出したかった。
気がつけばもう40代半ばになる。

ちょうど、自分より少し年下の男性がホテルの夜勤のみの仕事を希望という事ではいってきた。仕事を引き継がせるにはちょうどいい。ひと月ほど一緒に仕事をして覚えてもらい僕はその人が休みの日だけ 夜勤をするようになり昼前から夕方までとか 夕方から深夜までの交替要員に変わった。どの時間帯でも仕事が出来るようになり どこに何があるとかすべてを把握しかなり詳しくなった。

そんなある日、昼の掃除のスタッフ(おばちゃん)が 求人広告をもって見せてくれた。
通勤も可能な場所で面接に行ってみることにした。
採用された。仕事内容は 工場を新設して新しい事業をはじめるという会社で 責任者がひとりで 残りはすべて新規採用の社員でやるというリサイクルプラスチックの工場だ。
何日間か、研修を経て工場が稼働する。
求人広告には その工場の責任者とあとは作業員 パートの募集で、面接の時に責任者を希望するのか聞かれたが(おそらく年令的に判断されたのだと思う)みんなと同じ作業員を希望した。休みの日は ホテルで昼間働いて(アルバイト)たまに 工場が土曜日休みになる時があったので その時だけ休みになっていたし、土曜日の夜勤をしたりして 働く事ばかりやっていた。
リサイクル工場は、全員が新規社員なので 若い人から60を過ぎたパートの人男女が20人近く なんか 学校の同級生のような感じで それまで働いた中で一番楽しく 頑張れた。

職場は 家庭で、ゴミの分別をみんなやってると思いますが、その中のリサイクルプラを破砕しペレットというBB弾みたいなものに加工する工場です。なので 機械が傷んだりするのでゴミの中から リサイクルプラでないものを取り出していきます。みんながちゃんと分別をしていれば このような作業はないのですが、金属のほか 赤ちゃんのおむつなど 様々なものが混ざってます。お金も混ざってる事がありました。
1年間だけやった仕事でしたが 全員が新入社員なので楽しくやれました。
ベルトコンベアーで流れてくるリサイクルプラのゴミは においも 半端なく 前に築炉の工事をやってるときに 焼却場で漂ってたあのゴミのにおいで暑い時期になると いっそうにおいがきつくなり 作業服はもちろん 身体中ににおいがついて 車のシートなんかにも においがうつるから 帰りは 男は外で着替えて帰ってました。ほんとは 風呂とかシャワーとかあればよかったのですが その設備はありませんでした。
しかし、僕は選別の作業はあまりしてません。主に機械のメンテナンスで 選別をしている人が休憩の時に交替要員としてやってただけです。

暑い時期はにおいが強く 洗濯機買っていてよかったです。
海水浴にいったときの着替えみたいに車の陰で着替えてました。
女の人は大変だったと思います。
僕は リフトの資格があったし溶接なども出来たので重宝がら みんなもすごく慕ってくれていた。休み前になると月になんどかは お好み焼きを食べに行ったり ほんとに楽しい時間をすごした。若干数名なじめない子も居たが 声を掛けたり気を使って輪の中に入れるように仕向けた。1年が過ぎようとしてるときに 重大な問題が起こった。
本社のほうのミスだった。2年目の入札手続をわすれ仕事が一切ないという状況になっていた。1年間仕事がないという状況だ。
会社は、ひとりひとり面接をして 会社の取った対応策で我慢してくれるか もしくは退職してまた 一年後に来てもらうか等 決めなければならなかった。

やめても 僕はホテルにはもう戻れない。ホテルの社長はどうにか働ける時間を調整して戻れるようにするといってくれたが 自分から言い出して抜けたのに 甘えることはできなかった。リサイクル工場の仲間が近くの自動車の部品を作ってる工場が募集していると言い出したので 集団面接に行くことになった。7人リサイクル工場からその工場に就職することができた。

2018/05/31

1963年生まれ40才半ば引きこもりになりそうな時期

1Kのアパートに住み始めて いつのまにか一番長く住んでる人になりましたが その間に最初は 必要最低源ではじめたつもりの生活でも 道具が少しずつ増えていきました。

ホテルの週1度の休みの朝には、コインランドリーにいって毎回洗濯をしてましたけど 数年後には とうとう洗濯機を買う事にし 置くところはベランダしかなかったけど買いました。それでも コインランドリーの乾燥機はよく使ってました。

それから 車が普通車だったのですが ひとりで通勤に使うだけで税金が勿体ないなぁとは思ってましたけど いつかの夏、エアコンが全く効かなくなって 修理工場に持っていったらかなり費用がかかると見積もられ ちょうどその費用よりも安い軽自動車が売られてました。エアコンもちゃんと効くし 車検も長い期間残ってたと思います。僕の車はもう時期に車検が訪れる頃でした。なので 5万円ポッキリの軽自動車を買ってみました。
スズキのセルボモードです。デザイン的には気にいりました。
年式とか覚えてませんが、スズキのセルボモードです。
雪道でもよく動いてくれました。
運が悪ければ すぐダメになるだろうし よければ数年乗れると思ったのです。
そして 車検の期間が迫ってくる2年弱の時に 調子がわるくなり また修理工場に持っていったら 今度は5万じゃないけど50万でダイハツのミラがありました。ちょっとへこみがありましたが目立たないので善とし、ローンを組まずに月賦で買いました。
ダイハツ ミラです。たしか走行距離も少なく年式も新しかったです。
あとから スーパーウーファーとか取り付けてiPodを繋いで音楽を聴けるようにしました。
手持ちの30万を支払って残りは 毎月、5万ずつ修理工場に持っていけばいいという感じです。この車は なかなか壊れなくて数回車検も受けましたし 通勤や買い物に行くくらいなら全然 問題ありません。一度 九州まで乗って行った事もありますが さすがに高速道路は ノーマルエンジンでは 坂道が厳しかったですけど 長い期間乗ってました。
車には、そんなに憧れはないのですが 大きな車よりは 小回りのきく車が好きですしずっと所有してた車は 小さい車ばかりになってしまいました。

それから アパートにはケーブルテレビの契約をしてネットに接続してたのですが テレビ放送は じつはテレビを持ってなかったのです。パソコンにTVキャプチャボードをつけてまして それで放送をみたり 時には録画してみてたりしてました。
パソコンのモニターが壊れるまでは テレビはそれで間に合わせてました。
海外の人とも筆談ならなんとなく。この頃の携帯電話は
Vodafoneの折りたたみ式シャープの端末を使ってました。
ネットはケーブルテレビで繋がってましたので安定して使えましたが、前にもちょっと書いたけど Skypeやマイクロソフトメッセンジャーというソフトを使って チャットやビデオ通話をするようになりました。マイク内蔵カメラというUSB端子に繋げばすぐに使えるようになったので 知ってる人はそんな事をまだ出来ない人ばかりなので 会ったこともない人を相手に遊んでました。このとき 思ってたのはひとり暮らしでも家に帰っても話し相手を確保出来ると。しかも その相手は自分と同じような考えや趣味を持っている人なので 話もはずみました。記憶では45才になった時に 睡眠不足とか元気もなくなったので 控えるようにしました。

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2018/05/30

1963年生まれ40代の半分トンネルにはいる。

38才から5年間、夜勤のみの生活になった。
勤務時間は午後7時から翌朝5時半頃までで 休みは一週間に一度。
勤務先までは車で20分もあればつく。アパートから駐車場まですこし離れていたので30分を目途にして活動していた。

仕事は ホテルのフロント係だ。ホテルといってもファッションホテルであり(俗にいうラブホである)なので お客さんと対面することはほぼなく、対面することを避けなければならない。対応するのはほとんどホテル内の電話だけだ。それになによりお客さんのプライバシーを守らないといけない。

実際には、顔は鮮明にわからないけど 防犯のため 駐車場から入室するまでは監視カメラにはお客さんは写っている。部屋の中に入ってしまえばもうなにをしていてもわからないので唯一 内線の電話だけ連絡が取れる。この電話もなるべく フロントからはかけるのは控えなければならない。

利用のパターンは休憩と宿泊とがあって 休憩で利用していたお客さんが宿泊に変更になる事も多々あるのでその時だけはフロントから電話をかける。
その時間が深夜12時前で、掃除のスタッフも12時で終わるため 12時からはフロントの係のみになる。僕の場合 ひとりでも充分こなせていたので 夜中から朝までひとりだった。週末など 忙しい時はアルバイトの人がひとり来ることがあったけど 長続きしないので何人か一緒に仕事をした。
こんな仕事は今迄の仕事とは無縁の内容で 男ばかりの職場から ほぼ女ばかりの職場に変わったし ラブホとか興味半分でしかふれてなかった場所なので 最初の1年間は目新しいものばかりで しかも お客さんは変わるから 色々な人が居るもんだと感じた。
これについて 本がかけそうなくらい お客さんが帰ったあとの部屋に足跡が残されている。
12時をすぎてからは 来るお客さんは宿泊料金になるのだが 高い料金を払ってもすぐに帰っていくお客さんもいるので そのときだけ帰ったあとに部屋の状態を見にいく。火の消し忘れとか 掃除のスタッフが来たときに お風呂の栓を抜いておいてあげると掃除が早く済む。忘れ物とかある場合もある。
深夜の仕事は主にこんな感じだ。突発な事が起こらない限り別段忙しいこともない。

それ以外は フロントのフロアーを掃除したり 駐車場の掃除をしたり 補充品を入れたりでそんなに忙しくはないし 社長からも本を読んだり遊んでてもいいが 寝るのだけはダメだと言われてた。しかし、そう甘くはなく 社長は思った以上に細かく 神経質なのか 朝、交替する時に色々 チェックされチビチビ言われる。なのでそれが嫌だったから 言われないように努めた。しかもフロント内は 監視カメラが設置されていたので 居眠りとかしていたら 録画されている。最初は2つのVHSのテープで自動切り替えにより一週間保存されていたが 途中からハードディスクレコーダーになったので 限りなく録画される。
なので 死角を探して行動するようにもなった。

客室はカメラがないので ゆっくりサボれるがドアの開閉時間が記録されるのでここも つっこまれたときは理由を考えておかなければならなかった。
まぁ 客室でサボるといったら 僕の場合 マッサージチェアーに座ってマッサージをしてたくらいだが 真剣にこれ 家に欲しいと思ってた。でも 考えると大きすぎて家には入らないし価格も簡単に買えるような金額ではない。
唯一サボれる時間。
しかし、客室に設置してあるイスなので最初は躊躇して座れなかった。

なので、夜中に15分程度使ってみたりした。腰が肩 それにふくらはぎが最高に気持ちいい。

朝方になると 少し眠かった気分がうそのようになくなり交代に5時半ごろ 社長がやってくる。そうたいした申し送りはほとんどないがそれがすんだら 最初のうちは風呂がなかったのでホテルのシャワーを浴びて帰っていた。1Kのアパートに越してからはそれはなくなった。
朝 帰るときは車も少なくヘタすると
にも会うことがない。少しおなかがへったら、帰りにコンビニによってなにか買って帰るが そんなにお腹も減らない。部屋に入るときは オートロックなのでアパートの入り口で暗証番号を入力して建物の中にはいっていたけど 何年か経過したごろ 壊れてしまった。不動産やは修理もしない。建物にはいるとエレベータで自分の部屋にはいる。
この間、誰にも会わない。部屋にもどりシャワーを浴びて 以前なら仕事から帰ったら ビールなんか飲んでいたがそれもしなくなった。
すぐに寝れるかといえば、ずっと昼夜逆転の生活を続けていると昼頃まで 眠気がこなくなった。
帰ってくるとシャワー 睡眠 仕事のくり返し。
特にやりたいこともなく人との接触を避けていた。

カーテンは厚目の遮光カーテンをつけていたが隙間から光がはいるので薄明かるい部屋でベッドにはいる。ダイソーで買ってきた目にかけるマスクが大活躍だった。夕方、目が覚めてからちょっとなにか食べて仕事にまたいく。このパターンで毎日を過ごした。
休みの日は 週に一回あったが 朝 帰ってきてその日が休みになるので一晩だけ夜 寝ることができる。でも夜になると眠れない体質になってしまっていた。当初、「プチ世捨て人」な 気持ちでこの生活にはいったが このままでは身体を壊してしまいそうな気がしてきた。

唯一、贅沢をしたとすれば ケーブルテレビに加入していたことだ。インターネットも固定電話もセットになっていた。
テレビ放送は休みの日の夜中によくみていた。そして インターネットで WEBカメラがある事をしり 見知らぬ人とチャットをするようになった。
日本の人だけではなく 海外の人とも。英語が全くわからないが 学校で習った単語だけでもなんとなく会話もできるもんだとわかった。
しかし、ほんとに伝えたいことを言えたわけもなく 隣国のハングルは全然わからないし 台湾ならば 漢字が使えるのでなんとなく取っつきやすかった。台湾の人はフレンドリーで日本語を学んでる学生とかがたくさんいたので 仲良くなれた。
台湾語の勉強も少ししようと 本など買ってみた。筆談ならばなんとか会話はできていたが 話したり聞いたりは早すぎて無理だとわかった。
でも もうこの頃から10年以上経過したけど 当時大学生だった台湾の友人は30代になり今でも FACEBOOKやLINEでやりとりはしている。

ホテルの仕事をはじめて人と話す機会が数時間のみだけだった生活からネットを通じて会話を自宅に居ながらできるようになったことは 寂しさを紛らわせてくれたし、行ったこともない国の生活や習慣を知ることができた。
そして、中学生の時に同じクラスにいた友人にもネットを経て 再開できたことも大きい。学生のほんの数年間接点があっただけなのに 名前もちゃんと覚えてる。不思議なことに働きはじめてあった人で数年同じ職場にいた人の名前なんてそんなに覚えてない。子供のころに覚えて事って人の名前に限らず大事なんだなって思える。

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2018/05/25

1963年生まれとうとう40代にはいる。

出張工事をしてよく利用していた旅館の奥さんから たまに電話がかかっていた。
そのときに 今の仕事をもう辞めるかもしれないと話していたんだけど リセットしたいと前回のエピソードで記したが タイミングよく また電話があった。
旅館の友人がホテルをやっているので そこが人を探しているという。
アパートからは100km以上離れて場所なので 引越をしないと無理っぽい。
そんな話をしていったん断ったいたんだけど 再び連絡があって とてもいい話をもらった。
旧客室を使う事はないので、そこの部屋を無償で貸すから越してきて ホテルで働かないかという事だった。とりあえず ホテルの社長とは面識もないので 面接をしてもらう事になり 旅館に行ってみた。
面接とは 久しぶりの体験だった。滅多にスーツも着なかったから
ボタンが留まらないのではと思ったが ギリギリ着れた感じだ。
社長は気さくで優しそうだったが…
数年前までは年に2か月は泊まってた旅館が なんかなつかしく感じた。
旅館の食堂で 履歴書を持って面接をしてもらい すぐにでも働いて欲しいという事になった。そのとき37才だったが もうすぐ38になる年だ。
今迄とは 全然違う職種。ただ 気になっていたのは前職の時の人達が この旅館に時々やってくるので 出くわすのが 不安でもあった。
仕事は 夜勤のみで夕方7時から朝5時半くらいまでだ。

しばらく 旅館の部屋でお世話になっていたが ちょっと迷惑をかけてしまい 旅館を出てアパートを借りることになった。ホテルの社長もそうしなさいというので、荷物はあまりなかったが アパートを探した。
見知らぬ土地で身内もいないから 最初目のアパートは断られ 町の小さな不動産屋でみつけたアパートは 母親が県外でも保証人は誰でもいいというので ホテルの社長が快く引き受けてくれそのアパートを借りることができた。引っ越しした日は忘れてない。クリスマスイブのものすごく寒い日だった。

はじめて1Kという部屋で 広くはないけど ひとりで住むには充分かと思った。オートロックもついていて余計な訪問者に会わなくて済む。そしてなにより静かだ。
前のアパートは裏に 田んぼがあったが 今回は裏に川が流れててその向こうにたんぼがありたとえ 部屋で裸でウロウロしても外から見えることはない。
長い間住んでいたアパートだった。人生最長記録の7年間。
狭いながらそれなりに過ごせた。基本夏場はエアコンつけてるけどトランクスだけで裸でいることが多い。
ベッドも折りたたみ式にしたが 滅多にたたむことはなかった。
この部屋の条件として ガスと灯油は禁止となっていたので とりあえずミニキッチンがついてて 電熱器のコンロがあったけどお湯を沸かすだけでも かなり時間がかかる。
使えないと判断したので カセットコンロを使う事にした。おそらくカセットコンロも禁止なのかもしれないが 契約書には書いてないし 調べに来るわけでもない。

いざ、働きはじめるとまずは ホテルの部屋の仕組みを覚えるために毎日 数時間部屋の掃除を女性のスタッフに教わる。風呂掃除は15分以内で終えなければならない。水滴を残らず拭き取って 最後によく見て 毛が一本も落ちてないように。これが基本だ。
掃除した本人の毛が落ちることもあるので 後ろ向きに出てくるように教わる。
最初は15分では無理だったけど 一番早く掃除できるようになった。
あまりきれいな仕事ではないと感じていたが気にならなくなる。
それから 風呂用の洗剤で手が荒れるので フロントの仕事をしてるとき お客さんとの接客で手をみられるから 荒れないようにちゃんとケアするように言われた。
要は ハンドクリームを塗って 爪をちゃんと短くしとけばいい。そう解釈した。
約1ヶ月間 前半は社長からフロントの仕事を教わりながら 掃除を覚え後半はその奥さんから仕事を教わり 今迄とは全然違う みたこともないものや経験をし仕事を覚えた。
朝方 アパートに帰る時は ほとんど対向車もなく 人に会うほうがめずらしい感じだったが オートロックを解除して部屋にはいるともう誰とも会うこともない。
密かに 平穏に生活するには最高だった。それで2~3年経過したが 僕も40になり 話す相手は職場の人だけで それも 勤務時間の半分だけ。夜勤12時から朝までひとりぼっちで任されたいたので話し相手もいない。唯一話すといえば 宿泊してるお客さんの対応だけだ。それでも 自分で決めた事なので5年間 夜勤のみの生活を続けた。

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2018/05/24

1963年生まれ37才リセットしたいと思った。

製缶の職場に転向してから 2年ほど過ぎた頃 出向してきたときとは 経済的にも環境が変わってて 収入も激減してましたので 出向のまま その仕事を続けるのは厳しくなってきました。出向先の社員もたいして収入は変わりませんでしたが 唯一 不利なのが昇給や賞与があるのと ないのでは全然違う事になります。

そんなこともあって 九州の事務所に色々 マンションの事とかもあったから相談をするためにちょくちょく 電話をしてました。
相手は、社長じゃなくその奥さんです。社長は他の事なら色々 相談に乗ってくれますが「お金」という事になると 奥さんに丸投げしてたから 相談にならなかったのです。
なんかあれば 家族同然なんだからすぐに電話なり連絡するように 言われ九州を出来ましたけど、所詮 他人であるしその言葉を鵜呑みして信じてた僕が甘かったんだと思います。それまでの事が走馬灯のようによぎり 悩みはじめました。

決して 人のせいにするわけじゃないのですが 全てが出会ったために狂った。そう思い始めたのです。もしも あの時…って事がたくさん思い浮かんで 離婚もしなかったかもとか子供と別れる事もなかったとか そんなふうに悩み続けます。
過ぎたことは仕方ないと 自分に言い聞かせました。

ある日、九州に給与の前借りを頼んだことがあって 電話したときは「今からすぐに振り込んであげるね」と言われ 電話を切ってから時間をおいて 昼休みと休憩時間 そして帰りにATMでお金を引き出そうとしましたが 残高不足なので出ません。すぐに送金してくれると言ったので信じてたんですけど なんか手違いでもあったのかと思い 再び電話をしましたが 事務員に不在と言われ 次の日の午前中にも電話しました。そのときも不在。昼休みも不在。なんか不審に思い始めて 同僚の子の携帯を借りて まずは自分の電話でかけて事務員に不在と告げられ もう片方の手で電話をかけると 居ました。
なにかにつけて相談したりしてた自分も悪いのですが
甘えていたんでしょう。
事務所は電話回線が複数あるのは 以前事務所に勤務してたからその辺の事はよく知ってます。同時に電話がなれば事務員以外の誰かが電話に出るということも。
間違いなく 事務所には奥さんは居て僕からの電話を拒否してる事が確認出来ました。
ならば 最初からすぐに振り込むとか言わなかったらいいのに そう思ったのですが 数回ATMに通った事、電話も数回かけて居留守を使われたこと それだけのことでしたが 時がたつと こんな風になってしまった関係につくづく 嫌気がさしてきました。まぁ結局はお金なんですけどね。

会社のメンツを考えて 出向したり やらなくてもいい作業員の面倒をみたり様々な事が後悔にしかなりませんでした。

もともと 「心配するな 大丈夫。なんとかなるさ」って 困難に遭遇するたびにそれで乗りきってたけど この時の状況や立場全てを失っても 逃れたいと感じるようになり 準備をすすめました。社長の奥さんはもう信用しない。すべてが整って 最後に社長に電話をして辞めると告げる事にしました。
出張に行ったとき どこかの旅館にかかってあったこのフレーズがずっと頭の中にあります。
大丈夫と心配するなは 逆かもしれませんが 一休さんの残した言葉らしいです。
たしかに なんども気を紛らわせて助けてもらったと思います。
アパートにあった荷物も出張に行ってた時に持っていってた荷物以外はぜんぶ 処分し作業服なども全部 ゴミとして捨てました。アパートを出るとき 持っていったのはノートパソコンと着替えとか それに車の冬用タイヤくらいでした。

いよいよ社長に電話することになり あっさり解放してやるというような事をいわれましたけど 考えてみれば 九州に戻ってもそれまで監督として九州の社員を使ってたり自分の会社から受けた損失を考えると 使いづらいし不要だったのだと思います。
元請の大阪にある会社から 現役中はよく指名されてましたけど そこの社長が僕が欲しいと人づてに聞きました。でも、そこにいけば安泰ですが 九州の会社と取引もしてたので接点がないように配慮するとまでいってもらえましたが 万が一って事もあるし 配慮してもらっても自分に制限がつくようになるので 断ってもらいました。

これからどうするか? 当時は出会った人すべてをたちきり リセットできるならそうしたい その思いだったです。なので 携帯もdocomoをやめ J-PHONEに換え 平穏に目立たなく生きていこうと思った37才でした。

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2018/05/23

1963年生まれひとり暮らしでの不便と思うこと

30才をすぎて ひとり暮らしになりその後 5年ほどはほぼ 共同生活のような感じすごして来たのですが35才から 普通にひとり暮らしになってしまいました。
ひとりで生活していると やはり困ったこともあります。
人間の三大欲というのは、ひとり暮らしでも問題なく克服できるのですが  幸い大きな病気にはなったことないのですが 熱を出したりしたとき これが思い当たる節で一番 困りました。

まれに 高熱になって動くのも嫌だって時が 訪れるのですが 職場の上司からは病院に行きなさいとか言われますけど 行きたくてもだるくて行けないって事がありました。
とりあえず、力を振り絞って病院とかに行きますが 行ったからといってすぐには治るわけでもなく 家にいると食事もしなければなりません。

熱が高いときには 病院でポカリスエットを飲みなさいとか言われたことがありましたが 大きいサイズのものを なんとか買って帰って コップに入れて飲むとしても 今度コップを洗ったりするのが億劫になってましたから 熱が出た時用に紙コップや紙皿 わりばしを常備するようになりました。そのなごりで今でも、お箸は普段からわりばしを使ってます。
数年に1回くらい高熱になるときがあります。あと目の腫れ物と腰痛が頻繁に起こります。
大腸がんの検診はおなかがふくれて我慢しなさいと言われ苦しかったです。当時2,000円也。
熱が高い時に 病院にいって治り掛けの頃 一度 血便が出たことがあって 薬を処方してもらう際に ついでに先生にみてもらったんですが この時初めて大腸がん検診の予約をして受けてみました。最初に観てもらったときは 先生がゴム手袋をしてお尻に指を挿入して観たときは 痔でもなく おそらく傷ついて血が混じったのでしょうが 念のため大腸がん検診を受けなさいという事だったのです。食事を抜いて健診を受けたのですが 問題ありませんでした。実際 初めての事でしたけど 肛門に指をいきなりつっこまれるなんて ちょっと驚きました。子供頃は、座薬を入れるときに病院で触られた以来の事でした。

それと前回のエピソードにも少しふれましたが 職場で鋼材に躓いて そのとき走っていたのでかなり先まで飛び出して転倒したことがあったんですが よくはわからなかったけど左手をひねったと思うんですが 手首を曲げるのが困難になったことがあるんです。
その日は 我慢して仕事をしましたが 夕方 仕事を終えて帰る途中 病院に寄ってみました。骨には全く異常なく筋を痛めてるといわれ 少しの間 ギブスをしておくようにと 左手肘から指の付け根くらいまでギブスで覆われました。
ひとり暮らしの不便さをはじめて痛感しました。
アパートは2DKで裏は田んぼで静かなところにありました。
ちょうど 暑い時期だったので 汗も多いし 風呂にはいらないといけないのですが 片手にギブスをつけたらどんだけ 不自由か身にしみました。この時 家に家族でもいたらよかったなと痛感しました。食べたり飲んだりはなんとかできますが 着替えたりするのはすごい時間がかかって 着るよりも脱ぐほうが大変とわかりました。
風呂にはいるとき ズボンやパンツは簡単に脱げますが上のシャツは結構たいへんで またギブスが濡れないようにするためにビニールの袋をかぶせて風呂にはいりましたけど 根元を結ぶのが口と片手だけでやってて 時間がかかり 今度は ほどくのもうまくいかずイライラでした。
仕事のほうは 溶接とかの作業は片手では無理なので フォークリフトやトラックの運転などさせてもらい出来てましたが  朝は 年下の同僚が安全靴の紐を結んでくれたり助けてもらっています。溶接の仕事をしてないので かろうじて職場の風呂に入らずに帰れましたけど 家に帰るとひとりなのでまた 時間をかけて着替え 何日かすると風呂上がりは面倒になってきて 部屋の中ではパンツもはかずに裸で過ごしてました。
レースのカーテンだけじゃ全部丸見え。
自分もと思うとゾッとしました。
ついでに このような事もありました。
住んでたアパートは2階建てで横に繋がったありふれた建物でしたが 僕の部屋は2階の一番端でとなりには やはりたぶん僕より少し年上の男性が住んでました。
窓から外をみると裏には 田んぼがひとつあって細い道があります。滅多に通る事はなかったのですが ギブスも取れて 夜遅くなったときに その道を通ってアパートに帰る途中 自分の住んでる部屋のほうを 車を運転しながらみてみると 自分の部屋は もちろん真っ暗ですけど 隣の部屋の灯りがついてて 隣の男性が僕と同じように裸で部屋の中にいるのがよく見えてました。ということは…僕も外から丸見えだったということになります。レースのカーテンをしてましたけど 隣の部屋もそのようです。

部屋からは外を見ると真っ暗でなにも見えないですけど 逆に真っ暗なところから明るいところはよく見えるということに気がつきました。
若い時に、大工の師匠がよく言ってた事をなんとなく思い出しました。なにが起こるかわからないから身なりだけはちゃんとしておきなさい。あぁなるほどなって感じた瞬間でもありました。男なので興味深くみる人もいないでしょうが 女の人は気をつけたほうがいいですね。
ちなみにとなりのおっさん、挨拶もしないし不動産屋に目覚ましがうるさいと苦情を入れたれた事もあるので 教えてあげてません。

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2018/05/22

1963年生まれ35才新たに職種をふやす

出向先の会社で 段々 出張工事に行く機会をほぼなくされたので余剰人員扱いでしたが とりあえずそこの所長に気に入られてたので 工事とは関係ない仕事を与えられ 色々と仕事がない日はありませんでしたが 自分自身がなんとなくこのままではいけないって思うようになってきました。
そこの社員ならばそれで よかったんですが よその会社の子ですから ほぼ同じように福利厚生などは受けられましたけど たまに仲間はずれにされることもあります。
割り切りが出来てたからいいのですが 出向先から自分のところに社員にしてあげたいが九州の会社が手放さない限り 引き抜きのような形になるのでできない。そう言われました。

そして 僕はこのまま雑用でいるよりは いつか工事現場に行けたときに役にたつし 自分もやってみたかった製缶の仕事をできるならやってみたいと希望を出します。
この話は出向先の会社にとっても 自分にとってもメリットのある提案でした。
ただし、条件もついて 工事の人員不足の場合はそれもやってもらうという事がついてきました。よほどの事がない限り呼ばれる事はないと思ってましたけど 元請から指名されるということを忘れてました。なんどか短い出張でしたが行きました。
溶接をしてると紫外線が強烈なので日焼け止めを塗って作業しないと
年とってシミだらけになるそうです。なので真っ白になって若い者は作業をしてました。
溶接粉が飛び散るのであちこち火傷します。
製缶の仕事は、初心者なので一からで すでに35才になってましたから若い者優先で仕事を教えていきたいと上司の人に最初に言われました。基礎的な事と仕事の流れをおぼえれるように言われてます。それでもやったことなかった 溶接を習う事が出来ます。
おとなしく 平穏に過ごせたらいいなと思ってました。
まずは 技能講習にいってアーク溶接とガス溶接の終了証を何日間かいって取得しました。会社負担で行かせてくれるので 自分の財産になります。
それまでは、フォークリフトやショベルローダー ホイストクレーン 玉掛など持ってましたが製缶の仕事で問題なくできる様になりました。
ただ 溶接を習い始めたのは工事現場で使う物とは違い半自動の溶接機で 工事現場では使えないなとは 思ってましたけどだんだん 工事の事は頭から離れていき自分には関係ないやって思ってました。

溶接の作業は、冬場はいいのですが 夏場は思った以上に暑くて太ってる人が少ないのもうなずけます。尋常じゃない汗と作業場の暑さで太りかけだった僕もたいして痩せることはなかったけど抑えることは出来たようです。
一番下っ端になったけど おとなしく平穏に過ごす事に心がけました。
若い人のほうが先輩になるので決して出しゃばらないように
夏場は 汗を流して帰らないと下着もびしょびしょになります。
そして、工事現場で味わった工期や責任がなくなった事、仲間がいつもいて自分で抱え込まなくていいようになったことで このときは快適そのものでした。たまに工事現場に連れていかれましたが 面倒なだけでなんの苦痛もありません。
仕事をはなれれば 今迄なかった ビアガーデンに行ったり 健康ランドやカラオケにいったりとか 職場の人と遊べるようにもなりました。
ただ、腰痛はたまにあって仕事を休む事も多々あります。
左手を先について ひねったようでしばらく痛みがなくならず
病院に行くと ギブスをつけられ 着替えとかが たいへんになりましたが
職場の若い子たちが 着替えを手伝ってくれたりサポートしてくれてました。
一度転倒して豪快に転んだことがあるのですが その時 腕をひねってしまい数日 ギブスをつけていたことがあったんですけど まわりのひとが色々面倒をみてくれギブスしてても 出来る仕事をさせてくれ休まずに済んでいます。安全靴の紐を結んでくれたり着替えを手伝ってくれたりほんとに世話になってます。そうなると自分も必然と代わってきました。

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2018/05/21

1963年生まれ30代なかばの頃

工事現場の監督は 実質岡山の仕事以降 任されることはなくなりました。
出向先では 新人が数人はいってきて人員は足りるようになり 若干工事現場も少なくなってきてる状況でした。こうなると よその会社から出向させておいていた僕はいらない人員になってきます。しかし、返せない理由もありました。
元請から 指名で呼ばれる事があったからです。
なので、この時期は事務仕事やったり 新規の事業の手伝いをしたりあれこれ仕事をさせられます。出張工事で人員が足りない時は 監督補佐として行かされ
当時、「この仕事は出来ない」って思われれば こんなに仕事をやらされる事はないって思ってました。たとえば運転免許をもっていても 大きなトラックは新人は怖がって乗れないから 代わりに運転してやってくれとか仕事も多く 荷物を運ぶだけで岐阜県なんかにも行かされました。唯一 その時出来なかった仕事は 作業場半分を占めていた 製缶の仕事でした。

溶接関係を、全くやったことなく出張工事の時も 稀に溶接をしないといけない事があったのですが ちょっとだけ溶接したいとかあったけど そのたびに 溶接の出来る人を雇ってました。自分で出来ればっていつも思っていたのです。
どうせなら 自分も溶接を少しくらい出来るようになりたいと思っていたので 暇なときはそこにいって作業してる人の仕事を見に行ったり(邪魔しにいった)して 自分もこんな作業したいとかふと、もらしたかもしれません。

一方、出張仕事は激減してましたので 自宅(アパート)で 規則正しく 朝、出勤して夕方には帰ってくるというような生活パターンになりました。当然 収入も激減しました。
家では、今迄出来なかった事とかやりたかった事が出来るようになり それはそれで充実してます。まずは 近くのレンタルビデオに行き 数本ビデオやCD等を借りてきては数時間 映画をみたり CDをMDに録音して集めてました。離婚して数年間 CDを聴いたりすることがほとんどなくなっていたので その当時 流行ってた曲は小室哲哉の曲が多かったのですが まともに聴いたことなく(ラジオとかでちょっとだけ聴いた)CDを買ったり借りてきたりして聴いてました。MDのハードも 昔からSONYが好きなので MD WALKMANを買う気満々で 近くの大型家電店数店を回りましたが 再生専用はたくさんあったけど 注文して待ちきれないので 初めてKENWOOD製の録音できるポータブルMDを買いました。
車もMDが聴けるようにと最初はその ポータブルMDを繋いできいてましたが MDが聴けるカーステレオ(SONY製)に付け替えてます。
等速でしか録音出来ませんでしたが 便利さはカセットテープにはない便利さがありました。
数え切れないほど 録音しまくりました。
他には 仕事帰りに寄ったコンビニになぜか PlayStationが売ってたので 急に欲しくなりたぶん19,800円だったと思うのですが買って ゲームも始めました。
のめり込んでゲームやってて気がついたら朝方近くになり 仕事を遅刻することもありました。
そして インターネットなど やれる時間もできたので アニメーションを作りホームページを作ったり それにネットを通じて出会った人なんか友達も出来ました。メールのやりとりして あった途端にイメージが違いすぎてそれっきりなんて人もいます。
これ以降映画館には行ってませんが最後に観たのは「タイタニック」です。
露天風呂は隣県まで行ったりしてました。夜がほとんどですが
会社の若い子とも家に呼んだり遊びに来てくれるようになったので 仕事中心でほぼ共同生活で過ごしてきた出張ばかりの数年間から 生活環境が元に戻った感じです。
パソコンの自作とかやりはじめて なんか作ってるイメージがついてしまい
当時、まわりの人から噂されてた僕の事は それは
「アパートの一室で火炎瓶とか爆弾を作ってる」と、言われてたようですが 作ってたのはFLASHアニメーションや プラモデルです。プラモデルも塗装道具にコンプレッサーとか色々揃えましたけど。とにかくやりたかった事がたくさんあった時期です。
体型がこの頃から体重が増え始め 背も大きめなのでひげそりを怠けると「熊」と呼ばれてます。
体重80kgくらいから90kg弱まで増えました。
作業ズボンがピチピチになって来ます。
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2018/05/18

1963年生まれ34才最後の再会

広島に移り住んでから1年過ぎた頃 ちょうど子供の冬休みの時期(1996年)元嫁から連絡があって 娘がパパに会いに行くと言ってるというので 新幹線に乗ってひとりで来てもらいました。小倉駅の乗り場まで母親が送っていって 僕はどの車両に乗ってるのかを聞いて ホームまで迎えに行きました。なので降りるときに間違わなければ大丈夫と安心してました。
久しぶりにあったせいか しばらくパパとは呼んでくれなかった。
娘は小さい頃から 母親にはおかあさんと呼び 僕にはパパと呼んでました。
新幹線から降りて来るまで 相当不安でしたが 問題なく降りてきました。
本人も 乗ってる間緊張してただろうなと推測できます。
当時 僕は娘はまだ4年生か5年生と思っていたけど 6年生になってすぐに中学生になる年頃だったんだと このブログを書いてて計算してみて気付きました。
新幹線が到着すると ホームで待ってると1年ちょっと前会った時より背も高くなって成長しててちょっとびっくりしました。最初 本人も久しぶりだったから 緊張してた様子です。駅を出てふたりで街を歩いてみました。手を繋ぐのに僕は抵抗がありましたけど彼女は平気なようです。ちょうど クリスマスだったので 欲しいものを買ってあげるからと話すと、相当迷ったらしく 選んだのは NINTENDO64でした。プレステじゃなくていいのかと 何度も聞いた覚えがあります。娘は遠慮して本体だけでいいというけど ソフトがないとなにも出来ないから ソフトも一緒に買ってあげました。たぶんマリオカートを選んだんじゃなかったかなと思います。ほんとはそのゲームをしたかったのを あとで話してくれました。
夜になって食事をする事になって 外に食べに行こうと誘ったけど 断られ 家でなんか食べることになったんですが 娘を連れて飲み物や すぐに作れるものを探しに買い物に行き材料がひとまとめになった 鍋セットがあったのでそれにしました。
でも、やっぱりなんか緊張してるみたいな様子です。
お風呂に入ってもらってその間に 小さなテーブルの上にカセットコンロを置いて食事の準備をしました。(元嫁から電話をもらったときに、風呂とか一緒に入ったらダメよと強く釘を刺されてましたけど 自分のほうが恥ずかしくて、ありえないと言った記憶があります)そういえば、小学1年生の頃まではいつも一緒にお風呂はいってたから 元嫁にはそのイメージが強かったのでしょう。あともう第二成長期に入ってるといわれてました。
なんか もっと手の込んだもの作ってあげなよって言われそうですが
普段から家に居ないしカセットコンロをよく持ってたもんだと自分をほめてやりたいです。
そ、ガスを止めたれた時の対策で買っていたのです。
食事をしながら どんな生活をしてるのか学校はどうか等 話してるうちにやっと 緊張もとれたのか 小さい頃の娘にもどった気がしました。翌日から 家にじっとしてるのもなんなので 近畿に住む兄の家に連れていくことにしました。いとこの兄の娘もいるのでちょうどいいかなと。車で行ったので時間は結構かかりましたけど 小さい頃は「だまれっ」って言うくらいしゃべってたのに 成長したなって感じました。
兄の家に行くと ここも久しぶりに会ういとこ同士 年もひとつ違いなので すぐに仲良くなって部屋に閉じこもって遊んでました。兄の子は人見知りするのでどうかなとは最初不安だったんですけど いっぺんに不安もなくなりました。しかし 叔父の僕にはやはりひとみしりでしたけど…。正月の間 兄のところで過ごして家にもどり そろそろ 娘も帰らないといけない日が来ます。
元嫁にも 何日までに帰してと言われてましたし 学校もはじまるので仕方ないです。
また 新幹線のホームまで見送り 指定の新幹線に乗せてついたら絶対電話してといって
別れます。2時間もしないうちに電話があって帰りついたというので安心してましたが 自分の部屋に帰ると、さっきまで ここにすわって居たなとか こんなこと言ってたなとか蘇ってきて 3枚ほどしか写してない写真を見ては さみしさと闘いました。
でも、この時 これが最後の別れになるとは思ってもなかったです。
また 会いに来るねって、電話するねって約束したのに…時はどんどん進みました。

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2018/05/17

1963年生まれ34歳壊れてきた自分

現場の経験数もあまりないのに 現場監督として(本人は責任者感覚で監督という意識はない)人員不足か もしくは 過酷な環境の現場だからか 出向先の工事部門の上司に 東海地方の工場がある現場へ連れて行かれます。ここは新設の現場なので 監督補助として連れてこられたんだと思ってましたが いざ 着工すると お客さんに挨拶だけ済ませて帰って行きました。当然、お客さんは僕が監督だと思っています。

作業のほうは いつも一緒にやってる人達なのでいいのですが 新設となると色々な問題が発生します。舗装されてないし他の業者との兼ね合いとか色々です。
そして 大きな問題は 初めての仕事なので工程がよくわかりません。工程表を作って提出するのですが 他の業者と被ったりしてその調整とか毎日 頭を悩ませていました。

当然、自分だけでは無理なので工事部門の上司とかに電話連絡して相談しますが、この人も本来は 工事現場に出てやってる人ではないので 段々信頼性が欠けてきました。
「工程に追われる」この時から このことが自分にとってとても重い事になってきました。
それまでも 工程に追われるということはあったのですが 経験があったのと自分でどのくらいでやり遂げれるという感覚を持っていたので間に合っていたので そんなに重いものではなかったけど この時は違いました。職人さんに相談しやれるだけのことはやって間に合わ
ない時は仕方ないと励まされ 毎日 夜遅くまでやって貰いました。
なんでも出来るわけではないけど、
自分の出来るちょっとでも手伝える作業はやってました。

僕の出来る事は 作業は型枠を作るのを手伝う事くらいしか出来なくて これは手が空いた時に自分のペースで出来るからで 他の問題等があったらすぐにそこに行けるからです。
それから 毎日遅くまで仕事をやって貰ってるから なるべく職人さん達には仕事以外の事で煩わせたくないので 作業着の洗濯や食事の買い出し等 思いつく出来る事はやりました。携帯電話の支払とかも 代わりに支払に行ってました。
その甲斐あって 工程よりちょっと遅れましたが ペナルティも発生する事なく終了しましたが、ここの仕事が終わり頃に 上司がやってきて自分が指示して終わらせたみたいな顔して お客さんのところに挨拶にいってましたが それは職人さん達がやってくれたから出来た事です。
そして次の現場を言い渡されます。帰らずにそのまま同じメンバーで直行という事で 言われたことに従い 岡山の山奥にあるまた 新設の現場に行きました。
1997年34歳の時です。家を出たのが10月で終わったのは翌年の春以降。岡山の現場入りしたのは11月だったと思います。
岡山では、長期ということと場所が山奥なので大人数宿泊する施設もないので 会社はじめてのアパートを数部屋借りてそこに寝泊まりするという方法がとられました。小さい部屋に何人もの人が仕事を終えて寝泊まりするのですが一般の人が生活してるところなので大人数には対応してません。お風呂もひとりずつだし 食事を自分たちで準備してとか 現場までの通勤は片道30km超で山奥なので信号とか交通量が少なかったのでスムーズに出来てましたが 時間は結構かかりました。
問題をひとつひとつ解決していくしかないわけですが 多すぎて無くなる事はありません。毎日6時過ぎには アパートを出なくてはいけないので5時過ぎに起きて 帰ってくるのは段々遅くなってその日に帰れるかどうかまでになって来ました。
このころ 九州の社長から自分の車が壊れてこんな車を貸してもらってましたが
のちにもらい受ける事になりました。
これは夜遅くのアパートに帰る途中の様子です。外灯もなく滅多にない自販機の前でなんか買って飲んでたけど
ヘルメットを取るのも忘れてました。真冬なのに防寒具を着るのも忘れてました。
山奥の現場なので 携帯電話も電波状況が悪くて屋外のちょっと高いところでないと繋がらないし 頻繁に切れるので連絡も大変でした。
仕事の内容は 今回は前の現場よりもっと悪く 初めて使う材料とか工法で計画されてました。設計した人は図面上で考えてるから簡単そうに作業手順を記してましたけど とんでもない問題や落とし穴に遭遇します。材料を移動させる時に使うフォークリフトにしても博物館にあるようなリフトを配給されてやってましたが 舗装されてないので埋まって動かなくなったり それを引っ張り出すために余計な時間と人員を取られます。
それと 大きな現場なので 今迄いたメンバーだけでは人員は全然たりないから 別の業者に請け負ってもらって作業は進められてます。全員の動向をひとりでは 管理できないからと 何度も上司に連絡して 応援を求めましたが ちょっと顔を出しては帰って行くというくり返しだけでした。工期が長いので全く作業者に休日を与えないわけにも行かないので 2週間に1回休みを取ってもらってましたけど 請け負った業者と交互に休みを取るので 自分は休みを取ることが 半年間の間、正月の3日間だけ休みでした。
当然、ここにも工期があるので 前回の悪夢が襲ってきます。
毎晩 朝から晩まで屋外で仕事して 夜になると他の業者やお客さんはいないので
昼間は絶対できない場所で喫煙とか川で用をたしたりしてます。
すでに壊れかけてます。
自分で壊れてきたなって思ったのもこの時 初めて気がつきました。現場にいる人はともかく 上司や九州にいる会社の人 すべて 誰も信じられないし助けてくれない。電話でよく「がんばってね」とか 言われるけど がんばれないし それがすごい重い言葉になってきていました。何回 涙を流したかわかりません。追い詰められました。
会社からかかってくる電話に出るのも怖くなっています。
ここの現場に来て 携帯がだめになり機種変を行った記憶があります。黒いのが壊れたやつ
でも、電話に出るのが面倒で嫌で仕方なかった感じです。
そんな中、前回の現場に工事の不具合が発覚して 呼びつけられ事情を聞かれます。これは自分がどうしても確認できない作業箇所でやらなかったから悪いのですが その中にあの現場に顔を出してた上司がいて 一緒に僕を責めてきました。責任転嫁というか悪いのは僕で自分は一切関係ないという感じでした。もう今の事で 壊れかけた自分には反論も出来なかったしそれに立ち向かう事も無理でした。このことでこのプラント会社の工事には 僕は出入り禁止とレッテルを貼られました。行ける現場が減ったということになります。
書けば もっとたくさんの問題があった現場でしたが ようやくここから解放されたのは春から初夏にかけてのことで まわりは今迄とは違うそんな雰囲気を察知してました。

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