2018/05/21

1963年生まれ30代なかばの頃

工事現場の監督は 実質岡山の仕事以降 任されることはなくなりました。
出向先では 新人が数人はいってきて人員は足りるようになり 若干工事現場も少なくなってきてる状況でした。こうなると よその会社から出向させておいていた僕はいらない人員になってきます。しかし、返せない理由もありました。
元請から 指名で呼ばれる事があったからです。
なので、この時期は事務仕事やったり 新規の事業の手伝いをしたりあれこれ仕事をさせられます。出張工事で人員が足りない時は 監督補佐として行かされ
当時、「この仕事は出来ない」って思われれば こんなに仕事をやらされる事はないって思ってました。たとえば運転免許をもっていても 大きなトラックは新人は怖がって乗れないから 代わりに運転してやってくれとか仕事も多く 荷物を運ぶだけで岐阜県なんかにも行かされました。唯一 その時出来なかった仕事は 作業場半分を占めていた 製缶の仕事でした。

溶接関係を、全くやったことなく出張工事の時も 稀に溶接をしないといけない事があったのですが ちょっとだけ溶接したいとかあったけど そのたびに 溶接の出来る人を雇ってました。自分で出来ればっていつも思っていたのです。
どうせなら 自分も溶接を少しくらい出来るようになりたいと思っていたので 暇なときはそこにいって作業してる人の仕事を見に行ったり(邪魔しにいった)して 自分もこんな作業したいとかふと、もらしたかもしれません。

一方、出張仕事は激減してましたので 自宅(アパート)で 規則正しく 朝、出勤して夕方には帰ってくるというような生活パターンになりました。当然 収入も激減しました。
家では、今迄出来なかった事とかやりたかった事が出来るようになり それはそれで充実してます。まずは 近くのレンタルビデオに行き 数本ビデオやCD等を借りてきては数時間 映画をみたり CDをMDに録音して集めてました。離婚して数年間 CDを聴いたりすることがほとんどなくなっていたので その当時 流行ってた曲は小室哲哉の曲が多かったのですが まともに聴いたことなく(ラジオとかでちょっとだけ聴いた)CDを買ったり借りてきたりして聴いてました。MDのハードも 昔からSONYが好きなので MD WALKMANを買う気満々で 近くの大型家電店数店を回りましたが 再生専用はたくさんあったけど 注文して待ちきれないので 初めてKENWOOD製の録音できるポータブルMDを買いました。
車もMDが聴けるようにと最初はその ポータブルMDを繋いできいてましたが MDが聴けるカーステレオ(SONY製)に付け替えてます。
等速でしか録音出来ませんでしたが 便利さはカセットテープにはない便利さがありました。
数え切れないほど 録音しまくりました。
他には 仕事帰りに寄ったコンビニになぜか PlayStationが売ってたので 急に欲しくなりたぶん19,800円だったと思うのですが買って ゲームも始めました。
のめり込んでゲームやってて気がついたら朝方近くになり 仕事を遅刻することもありました。
そして インターネットなど やれる時間もできたので アニメーションを作りホームページを作ったり それにネットを通じて出会った人なんか友達も出来ました。メールのやりとりして あった途端にイメージが違いすぎてそれっきりなんて人もいます。
これ以降映画館には行ってませんが最後に観たのは「タイタニック」です。
露天風呂は隣県まで行ったりしてました。夜がほとんどですが
会社の若い子とも家に呼んだり遊びに来てくれるようになったので 仕事中心でほぼ共同生活で過ごしてきた出張ばかりの数年間から 生活環境が元に戻った感じです。
パソコンの自作とかやりはじめて なんか作ってるイメージがついてしまい
当時、まわりの人から噂されてた僕の事は それは
「アパートの一室で火炎瓶とか爆弾を作ってる」と、言われてたようですが 作ってたのはFLASHアニメーションや プラモデルです。プラモデルも塗装道具にコンプレッサーとか色々揃えましたけど。とにかくやりたかった事がたくさんあった時期です。
体型がこの頃から体重が増え始め 背も大きめなのでひげそりを怠けると「熊」と呼ばれてます。
体重80kgくらいから90kg弱まで増えました。
作業ズボンがピチピチになって来ます。
前のエピソード
次のエピソード

0 件のコメント:

コメントを投稿