2018/03/30

1963年生まれ東京で就職そして退職の事


高校出てすぐに就職したわけですが、僕の学校の同級生は90%以上の生徒が就職しました。
入社式のあと、本社で研修が行われ数日間 同期の者と楽しく過ごします。そのときの寮は千葉県の船橋市にあったので毎日 通勤電車にゆられ 配属が決まるまで見るのも体験するのもはじめてのものばかりで楽しかったです。

地方から出てきた者どおしは なぜかみんな仲良く団結していたというか 行動もいつも一緒でした。関東近辺の者は休みになると家に帰るし、通勤してた者はなじめなかったようです。
地方出身者は、まぁ研修の間は生活も一緒だったし 通勤も一緒なのでそうなったのかもしれません。
ほとんどが 初めての集団生活でもありましたので食事も風呂もいつも一緒です。ただ 風呂はせいぜい3人くらいしか入れない狭い風呂場だったのですが いつも4~5人ではいってました。
地方出身者はいつも行動を共にし、夜、街で補導された事もあった。
見た目は 高校生だから仕方ない。
そして、配属が決まり2人ずつくらいの振り分けで みんなバラバラになります。寮も変わる者もたくさんいました。自分もそのひとりです。配属先は都内杉並区でしたが 甲州街道がすぐ前を通っており しばらくは夜 音になれるまで時間がかかっています。寮は杉並営業所の2階で 木造のかなり古い建屋だったです。先住者の先輩がひとりいただけで 新入社員2名がはいり3人で過ごすことになります。食事はなく 風呂はひとりしか入れない小さい風呂で 3人で交替で掃除をしてましたが、もうひとりの新入社員は千葉の子だったので 毎週末はいません。

仕事場のほうは、元立川の暴走族だったという先輩と所長にもうひとり事務関係のおじさんがいただけです。
元暴走族だったという先輩は、2つくらい上で この人から結構 かわいがっていただき 立川の自宅にも連れていかれました。
というか 無理やりですけど。
寮の先輩もステレオとか音楽が好きらしく たくさん聞かせてもらいました。新入社員のもうひとりの子は 事務所から ほぼ出ることなく 自分は朝から晩まで 先輩とトラックに乗り 新宿区を回ってます。免許も取って半年も経ってなかったのですが、新宿の街の中を初めて乗るトラックで かなり怖かった記憶があります。
こんなくるま運転したことなかったし、そもそもルームミラーは自分の顔を
みるためについてるのかと 先輩に聞いたことがある。横に乗ってた先輩も怖かっただろうなと思います。
ちなみに この仕事は街の電器屋に製品を納めるルートサービスでした。
あ、初心者マーク描くのわすれてます。
しかし、毎日目新しい事が楽しくてやってましたが、給与が…
レストランのバイトの給与くらいしか もらえなくて 食べるのも外食ばかりなので 到底たりません。
そこは 我慢するしかなかったのですが 高校の担任が様子をうかがいに電話を掛けてきました。
2か月目に入ったときでしたが、寮費をひかれ食事はココは自分でどうにかしないといけない。親にお金が足りず 送ってもらった等 相談したところ 即答 辞めて帰ってこい。次の仕事を探してやる。でした。

そうとう 迷いました。折角東京で就職したのにとか やってみたいこともあったわけで。じゃあ 同期の子も同じだろと思われるでしょうが 船橋の寮は食事がついてるし通勤手当もあります。同じ配属になった彼は 聞いてみると 週末家に帰るから問題ないという返事でした。その後、高校の担任から何度か電話があり わずか2か月ちょい働いて帰る事にしました。

東京の思い出とはこんなもんです。カップラーメンを買おうと手に取ったけど 安い袋ラーメンと交換したこと。朝と夜は食べないとか節約してた事。たしか「いなげや」というスーパー。調べてみると今でもあるし大きくなってる様子

そして大きなイベントがふたつありました。
ひとつ目は 会社主催の新入社員歓迎会という名の フィールドアスレチックと運動会。
これは くせもので パートナーと一緒に行動するという鈍くさい相手になると最悪な催しものでした。
高校の時は運動会とかなかったし、1年以上まともに運動してなかったから 相当こたえた。
上位には賞品があったけど、なにもなし。
何人かで近道したこともバレた。
本社から 久しぶりに同期の者と再会して 楽しい時間もつかの間、アスレチックは 年上の女の人がパートナーになり ふたりでがんばりましたが ビリです。おまけに最後は たわらを担ぎ走らされる罰ゲームまでありました。はっきり覚えてないけど 場所は「向ヶ丘遊園地」だったような名前が残ってます。
フィールドアスレチックとか あったのかどうかわかりませんが、アイドル時代の「堤大二郎サイン会」をやってました。

もうひとつがイベントというほどでもないですが、
杉並の寮(営業所)の近くで放火事件が多発してて 警察の協力をするために 所長の言葉が
「今日からしばらく夜は 警察の方が張り込みをするので君の部屋使うけど、話しかけたりはしないで 普通通りにやってくれ」という事でした。
こんなところに平気で寝るには図太い神経が必要だと思った。警察の仕事もたいへんだなぁと。
しかし、よりによってなんで自分の部屋だけって思ってました。
先輩達は、いい経験ができるのとか茶化されましたが、実際 仕事が終わり部屋に帰ってくると薄暗くした部屋にふたり居ます。帰りはいつも8時以降でしたが 話しかけてはいけないとか言われたわりには 色々と聞かれました。どこから来たのかとか。寝るときも 布団を敷いて寝るのですが 見張ってるふたりが横にいて なかなか寝付けない状態でした。
朝。起きるといません。
これが 1週間近く続きましたが、突然こなくなったので このあと犯人が捕まったのかどうかはしりませんけど
このせいで 朝 何度か寝過ごし 下の営業所から元暴走族の先輩が やってきて蹴られて起こされます。

辞めて帰る事を所長に相談したときは 本社に一度呼ばれて行きましたが 学校からも連絡があったみたいです。 色々 言い訳のような説明を受けましたが ちょっと早すぎる退職でした。

2018/03/29

1963年生まれの学生最後の春休み


1982年3月1日 無事に高校を卒業して来月から東京で暮らすことになりました。一時は交通事故で3年に進級できないかもしれないという事態になってましたがぎりぎりセーフでした。
そういえば、2年の終わりに体育の補修で学校に来たときに、夜中火事があって体育館が全焼してて、3年生の間の体育の授業は外で、ソフトボールかひたすら走るという授業でした。雨の日は自習とか。

3月31日に東京で入社式があるので、約ひとつき休みになるわけですが、住み慣れた九州からさよならしないといけない事に結構、覚悟がいりました。仲良くしてくれた友達とかも別れなければなりません。
仕方ないことです。母親が最後にスーツと布団を買ってくれたのを覚えています。
でも、いつまでもダラダラしててもダメなので早めに家を出ることにしました。関西にいる兄のところにしばらく滞在して 上京することに決めました。
おそらく3月の中旬だったと思います。

兄のところに行くと、兄は夜、仕事をしていたのでその生活に合わせないといけないのですが 兄にはこの年に 結婚する人と同棲してました。
お姉さんになる人もいたわけです。
兄が仕事に行ってる間、このお姉さんと僕は 兄に連れていかれた焼き鳥の店で毎日働かされる事になります。
兄の働いている店の姉妹店だったんですが、兄は寿司職人で本店で働いてこの焼き鳥屋は、お姉さんと自分とあとおじさん(焼き鳥を焼いてくれる人)だけでした。まさか送り込まれるとは思ってなかったけど、仕方ないです。

仕事は、接客でしたけどこれが酒やビールなど飲まされたり、もう毎日大変でした。カウンターの下にバケツを置いてお客さんの目を盗んで捨てるという方法を思い付きました。
カラオケも8トラテープでした。
すすめられるがままに 吞んでいたらたぶん、仕事できなくなります。

兄いわく、アホか酒を断ってどうするんや。それだけ売り上げにつながるだろと 言われましたから なるほど納得です。
たまたま九州からどこかの工事現場に来てたゴツいお兄さんが、毎日来るようになって、毎日この人の相手で手一杯でした。気に入られたみたいです。
他のお客さんは、ほとんどお姉さんが接客してたはずです。

いよいよ上京する日が近づいてきました。
なんかものすごく、寂しい気持ちになってましたが いかないわけにもいかず、髪にパーマをあて眉とか整えてましたが、形が気に入らずどんどん剃っていくうちに片方の眉半分なくなってしまったのです。これは大失敗でした。もう入社式もすぐだというのに途方にくれてました。
お姉さんの提案で、絆創膏を貼って生えてくるまで隠すしかないという事で決着できました。
カミソリはほんとよく切れます。
これ以降 使ったことがない気がします。

関西を立つ時に、兄が封筒に10万円いれて渡してくれました。焼き鳥屋に送り込まれた分の給与と思えと言われましたが10日ほどしか働いてない。あとでわかりましたが、兄の働いてる店の社長さんが足してくれたみたいです。
新幹線に乗り込むとき、見送りにお姉さんと兄が来てくれましたが、このときは さすがにつらかったです。
スーツもあったはずなんですが、ふとんと送ったかもしれません。
ラジカセはSONYのCFA-7という(ネットで探して書いてみました.)唯一、持っていった家電製品です。
ミュージックカセットテープを何本か買いました。
九州を出るときは 全然平気だったのに…。そして 東京に向かいました。

※ 記憶にあるこの時 買ったミュージックテープ3,000円くらいだったと思いますが 松本伊代と伊藤つかさと畑中葉子だったと思います。あとLPで増田恵子のすずめがはいったやつを焼き鳥屋でよくかかっていたのを 姉が買ったので録音して持っていってます。
ちなみに、ラジカセは新幹線の中で聴いたわけじゃなく ただ持ち歩いてただけだったような…ファッションです。(サンヨーのU4が流行ってましたから)

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2018/03/28

1963年生まれの高校生後期の頃の事

10月頃、2回目の上京をしました。(1981年の事です)
就職試験の為です。1度目は、修学旅行でしたけど 今回はひとりです。会社は秋葉原にある会社だったので その近くに前日から一泊したと思います。もうひとり福島県からきた女子もいました。
この旅館で はじめてガスストーブというものを見ました。
「途中で火が消えたら死ぬんだろうなぁ」そんな事を考えてます。
来たついでに、東京をひとりで見て回り 帰りました。
小倉から新幹線で行きました。家からだと8時間以上かかる移動です。
田舎もんと悟られないよう気をつかいますが、方言でダメでした。

人がどこにいっても多いし空はどんよりしてて地下道はなんか息が詰まりそうそんな気持ちを抱いてたと思います。見るものすべて珍しく夢がいっぱい詰まってた気がしていました。

九州では、自動車の免許も取って 自由に乗れる車もあったので残り3月までの残りの期間、あちこち友達と行ったり バイト先に新しくはいってきた女の子(16歳)が結婚してると聞き 話してるうちにその旦那が 自分の中学の時に同級生とわかり急に仲良くなったりしました。中学の時はほとんど喋ったこともなかったのに。その妹(中学生)と付き合ったり。他にバイトに来た子で たぶん同一性障害?と思うのですが、女の子と思ってた子がはいってきて、実は男だったという。(三原じゅん子さんの大ファン)なんど セクシーナイトやドラム、サニーサイドコネクション(三原じゅん子の楽曲)を聞かされた事か。
名前が、マサに男でしたがしゃべってもちょっと声が低い女の子かなと気が付かない。
お客さんにも人気がありました。

この人達とも 次期にお別れしないといけません。

福岡市か博多どっちか忘れましたが、TDKオーディオセミナールというものが開催され、ホンダZで友達と2時間ほど掛けて参加したことがあります。アルミダイキャストのフレームのメタルテープがもらえるというものでしたが2回あったのですが
2回目の時に、なにを思ったのかタレント養成所のオーディションを友達に待ってもらい受けます。
オーディションでは、本読みと前でジャズダンス?を踊る人を真似して踊る事 あと面接があり 面接官に「どのような人になりたいですか?」と聞かれて 頭の中で
としちゃんとかマッチっていえば チャラいな(この言葉はなかったですけど)レストランのバイト先に来た菅原文太(映画の撮影(青春の門)で松坂慶子さんとか杉田かおるさんが来た)さんといえば、遠すぎるしで とっさに 「加山雄三さんです」と言ってしまいました。まぁ加山雄三さんも遠い人ですが、歌を歌ってましたから。数日後、合格の知らせが届きました。
どんな人になりたいですか?という質問だったと思いますが…
東京に就職が決まってるので東京でレッスンを受けるということでその時は話は終わったのです。(それどころじゃない事態があります。後日に)

実は、この頃 やりたい仕事はあったのですが、家庭の事情を考えてあきらめました。
「歯科技工士」そのとき まさに これは自分にピッタリと思えたのです。しかし、専門学校に通うにはかなりのお金が必要だと知り、諦めてます。

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2018/03/27

1963年生まれの高校時代趣味他

実は、家には小さい頃からカメラがなくて写真がほとんどないのです。当時は写真を撮っても現像してプリントしてもらうにはカメラ屋さんとかに持っていかなければいけなかったのですが、そのうち スーパーとかでも DPEの受付が安価になって広まっていきました。知り合いのおじさんに リコーオートハーフというカメラを借り写真を撮ったりしました。
リコーのカメラ オートハーフ
持ち方が変なのは、カメラの全体を見せるためです。

※ フィルム24枚撮りで2倍の48枚撮れるのでハーフって名前がついてるのかと思ってます。
あと、安価なカメラでコダックのカートリッジ式フィルムのカメラを手に入れますが 画像的にはきれいに撮れないような感じでした。明るいところならそれなりに撮れてました。

その頃、当時は絶大に人気あった 榊原郁恵さんとか石野真子さん、大場久美子さんが好きで、まぁ大場久美子ファンという男子高校生だったわけです。シングルレコードもLPもすべて揃え写真集やらとにかくファンです。
そんな中、大場久美子を起用した「OLYMPUS OM-10」という一眼レフがTVCMで流れ カメラを買ったら大場久美子のオリジナルポスターももらえるということで 新聞配達で溜めてた貯金をつぎこんで買いました。マニュアルアダプターとかオプションも買ったので 60,000円以上したと思います。
CMの中の「君が好きだという代わりに、僕はシャッターを押した」というフレーズが印象的に残ってます。
はじめての一眼レフOLYMPUS OM10
セルフタイマーの電子音がなんかカッコよかった。

あとを追うように ミノルタからも 「今の君はピカピカに光って~」とCMソングを流しながら 宮崎美子さんのCMで同じような価格のカメラが発売されます。

カメラ小僧になる気満々でしたが、カメラ自体は、レンズが1つついてました(50mmだったと思います)のですが、そのうちレンズも買いそろえようと思ってました。しかし カメラを買ったものの お金がかかります。なので 段々気持ちが薄れてきます。しかし 買ったままのカメラでかなり写真は撮りました。(残ってるのはわずかですが)

時に最初のオートハーフの時、何も知らずにフィルムを装填して撮影すれば、中のフィルムは現像したみたいに画像が出来てると思い裏蓋を開けたり閉めたりして何もうつってなくて現像代だけ払ったという失敗があります。だからOM-10の時はその失敗はなかったけど 手ぶれやピンボケで毎回2,000円近く同時プリントで支払っていました。

3年生になると 1年の時にかった一体型のSONY エアポートというステレオでは物足りなくなり 姉の嫁ぎ先の姉婿の弟さんが持ってたPioneer PROJECT A9というシステムステレオをみて 同社のワンランク下のA7というものをエアポートを下取りに出して買い換えます。
ラックふたつに スピーカを並べると 自分の部屋の大半を占めましたが 当時はステレオといえばこんな感じでした。毎日眺めてました。
オプションのTVチューナーやらマイクミキシングアダプター、ライト等も揃えました。

のちにミニコンポが発売されて一般的になっていきます。
アイドルもので いえば 当然 松田聖子のアルバム。最初の3~4枚は買いそろえましたが YMOとかシーナ&ロケッツ等にはまります。ジューシィ・フルーツ、プラスチックスもよく聞いてました。

3年の9月には18歳になるので、夏休みから自動車学校に通い始めました。誕生日までに出来る事をやって 誕生日がすぎたら早めに免許を取るという魂胆でした。
たぶん学科と2段階の実技までだったと思うんですが、1段階も2段階も補修を1時間ずつ受けたような記憶があります。
路上と仮免、それから最後の実技は補修はなかったです。
学科試験も、一回で通りました。

でも、免許を手にいれたのは11月になってしまいました。就職活動で東京に行ったりして 伸びてしまいます。
車はとりあえず、卒業するまで乗る360ccの ホンダZという車が車検切れで(姉の旦那が自動車整備工場をやっている)あったので、5万円で乗れることになります。
※ 今考えると4か月しか乗らないのに車検を受けさせられた感が残ります。残りの1年以上は おそらく代車として使ってるはずですから。

ホンダZは4人乗りの軽自動車で、5速ミッションでした。カセットテープは聴けましたが、エアコンというか クーラーはありません。冬の間だったからよかったのですが。
学校に乗っていきます。途中 学校の先生達による検問があるので毛糸の帽子をかぶり眼鏡に、マスク、そしていつでも味方のばあちゃんのどてら(綿入りの上着)をきて変装まがいで通学してました。学校には駐めれないないので、幸い近くにバイト先のコックさんの家の空き地に駐める事ができてました。
メチャクチャ小さいですが180cmの僕でも乗れました。
タイヤは10インチだったと思います。
バイトの帰りに、そのコックさんを送って帰れるというお互い得した感じです。ガソリン代もたまにもらってましたから。1000円とかですね。

趣味はというと カメラが好きだった事みたいですが、写真を撮るというより カメラの操作が好きなんだと思います。
その後、一眼レフはフィルムカメラで2台使ったきり 今持ってるのはデジカメのミラーレスですが もう古くなってしまったけど、カメラ自体はコンパクトカメラか なにかしら 持ち続けています。

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2018/03/26

1963年生まれの高校生アルバイトの記憶

前回の続きのようになりますが
裕福な家庭でなかった為 お小遣いももらえないものと自分で自覚してました。時に無理をいって買ってもらうときもありましたけど 基本的に自分でバイトすると思ってました。

中学2年生からは新聞配達をはじめ 高二春(事故にあう)までやってます。夏休みは 建材店で材料を配達するバイト
注文のあった建材を配達するおじさんの手伝いです。1日5,000円だったと思います。

や農家のタマネギの収穫の時などもやりましたが これはその時だけなので 新聞配達をやめてから少しの期間 バイトしてない時期があります。実際には歩くのもままならないので無理ですが、その年の夏休みから ずっと働けるバイトをはじめました。

アルバイトをやることは、色々勉強になっていいと思ってます。今、高校生なら自分なら絶対、コンビニでバイトしてると思います。身近にありますし。

そんな中で 仕事は粗相を犯すこともなく こなしてたんですが 1度だけ レストランのバイトをしてるときに 釜飯定食というオーダーを受け お客さんに持っていったとき 普段はテーブルの上に置くのですが お客さんに手渡ししようとして 食事ののったおぼんごと ひっくりかえし お客さんのズボンを汚してしまったことがありました。
釜飯定食には、味噌汁とお茶の熱いものが一緒になってるのでかなり熱かったと思います。
お客さんは 若いカップルでデート中だったと 言ってました。
こぼしたのは男性のほうで しかも股間にほとんど 熱いものがかかりましたので ズボンだけでなく下着もびしょ濡れです。
大事なところを大やけどしなくてよかったと店のスタッフに言われ続けます。

幸い、2階にはサウナがあるので着替えていただき 食事をしてる間 汚したズボンなど 乾かして その間 なんどもお客さんのところに行って 謝りました。
店長の奥さん(この人はバイト仲間ではイジワルババァと呼ばれてた)からは 店はじまって以来前代未聞の事だわと ネチネチいわれましたが 仕方ありません。
お客さんの食事が終わり ズボンも乾いたところで 帰るときにレジで そのお客さんがお金を払おうとしてたら 店長の奥さんがレジにいて 「食事代は結構です」それから「クリーニング代」とか封筒を用意してました。
僕もレジに行って 最後にもう一度謝ろうとしてたら
その男性のお客さんは 食事代も払い クリーニング代の封筒も受け取らず 店長の奥さんに
「この子は、絶対、叱ったりしないでくださいね」と言い 同伴の女性も「また 来ますね。バイトがんばってね」と 言葉をいただきました。ありがたかったです。
帰ったあと、店長の奥さんは何も言わなかったけど なんか悔しそうな表情。今でも忘れてません。
しかし、サウナにいるような お客さんだったらと思うと怖かったです。

一方、和室の席にいくと個室状態なので すこしお酒のはいったお客さんとかもいまして たびたびこのような光景がありました。
このような事は、しょっちゅうありました。
中にはジュースを注文して飲めというお客さんもいらっしゃいました。
しかも、断ると店長を呼んで 吞ませてもいいかと許可を取ろうとする客もいました。
全然、気がつきもしなかったのですが あの店員がいるからあの店に行こうというお客さんもいるということをお客さんに延々と言われ そういうこともあるんだと知りました。
お客さんは バイトでもその人の対応や仕事ぶりをみている事。


僕も 先日、焼き肉店に行ったときに母校の生徒が同じようにバイトしてる子をみたんですが なつかしくもあり 「高校生なん?」と聞いてみました。しかし 時給は倍以上もらってた!

レストランのバイトは 高校卒業するまで続けてましたし、実は 働き始めても 正月とか忙しい時に呼ばれて21歳になるまで行ってます。ちなみに店長の奥さんが「もうバイトが長いから時給をあげてますね」といわれ 350円が370円になってます。

この頃、知り合ったバイト仲間やコックさんとか未だに 付き合いのある人もいますし 亡くなった方もいます。
コックさんたちは 自分はそのままその店で コックさんになると思ってたらしいです。

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2018/03/24

1963年生まれの高二アルバイトの記憶

事故にあってから、まず高校のバレー部は退部させられ 新聞配達も入院中にかわりの人がはいった為、やめる事になりました。
夏休みになると、歩くのもずいぶん元に戻って(走るのとあぐらをかくのは無理でした)友達に誘われ、夕方5時から10時迄 レストランの皿洗いのバイトをすることにしました。
時給350円です。5時間働いても1,750円ですが 当時は新聞配達の5倍くらいもらえてたので こっちのほうが断然いいと思ってましたけど、時給に換算するとたいして変わらないようです。

仕事内容は 食器の汚れを軽くおとし 食洗機にいれて乾燥が終わったら元の位置に戻すと単純な作業でしたが、慣れてくると他にもごはんを炊いたり(10升炊)簡単な調理をしたり ビアガーデンもあったので ビールをお客さんに持っていったりで 結構楽しかったです。
比較的簡単な仕事なのでお客さんがまとめてこない限り自分のペースで出来ました。
夏休みだけの話でしたが、夏休みが終わる頃になって 店長から学校終わってからも来てくれないかと言われたので、僕だけそうしました。友達は親が反対したようです。

この年は1980年で、「松田聖子」とか「たのきんトリオ」が出てきてまして 女の子の髪型が ほぼ同じような感じで男も としちゃんやマッチみたいな髪型が多くなりました。
学校はズボンの生地が普通の3倍くらいいる だぶだぶの「ドカン」とか 髪型はそり込みをいれてオールバックにしてる者が数人(半数くらいかな)いたなか 僕はかろうじて普通の子でしたので 2学期からは 皿洗いじゃなくホールに出されます。
俗にいう「ウェイター」です。

しかし、上は制服のようなものがありましたが ズボンは学校ではいてるズボンでした。なので 巾の広いズボンはダメです。
3時半に学校がおわり、帰りの途中(家とは反対方向ですが)公衆電話からレストランに電話をすると、店長が毎日車で迎えに来てくれました。そして夜は賄いがあるので食事の心配もなかったです。帰りはまた車で コックさんとか一緒ですけど 家まで送ってくれます。
そうなると、家に帰ると風呂にはいり、寝て学校に行くという生活になりました。昼は学食で友達と食べてましたし朝は、ほとんど食べなかったので。

このバイトしてたレストランですけど、2階はサウナになっててたまに、食事の注文があると配達にいかないといけません。女のサウナには いけませんので 男のサウナだけですが、入れ墨をいれた人達ばかりなので 光景がすごかったです。
普通に持っていってるようにしか、描けませんでしたが色々とちょっかいされてました。
その旨の人達の集会というのが 一度あって200人集結して同時に食事に来たときが 一番大変でした。(レストランはせいぜい60人くらいの席しかありません)
食事が終わると交替で 入れ替わりはいってくるので 店の食材もすべてなくなるという状況で、最後頃の人は食パンだけとかになりました。
全テーブル20席あったのですが、全部こんな感じでコックさん達も相当大変だったようです。
片付けが終わったら食材が何もないので、早く帰る事が出来ました。
おそらく上の人だと 思いますが ホール廻りであちこちに配膳してると「にいちゃん、ちょっと来い」と呼びつけられて 文句でも言われるんかなぁと思ってたけど
「若いもんが、なんか文句でも いうてきたら すぐ俺に言ってこい」と言われ、それからなんか安心して仕事ができました。
帰ったあと、店内は 台風が通過したあとみたいな状況になってました。

ほかにも たくさんエピソードがありますが別の機会に紹介します。このレストランのアルバイトによって 社会人になっても沢山役に立つ知識や経験を身につける事ができました。

※レストラン店内に レコード専用(CDはまだ登場してない)ジュークボックスがあり たぶん100円だったと思いますが これにバイトの子はお金をつぎ込んでました。ディスコミュージックが流行で アラベスク(ハローミスターモンキーとかハイライフ等)やボニーM(怪僧ラスプーチン、サニー等)ソウルドラキュラ等 よく聞いてました。

あとで、有線に電話リクエストすると数分後に再生される事を知り、ガッカリします。電話代10円だけですみますもん。

2018/03/23

1963年生まれの高校いじめの記憶


高校生の時、学校はほぼ男子校だったのと中学ではちょっと悪さをしてた子が多かったので いきなり殴り合いのケンカが始まったりしてました。喫煙もまん延してました。
でも、一部、成績の優秀な人もいましたし、おとなしい子もいます。

先生も 悪さをしたときは容赦なく体罰をあたえます。生活指導の先生はいつも竹刀をもってましたし、担任も平手で顔を叩いたりありましたが、先生に はむかう 生徒はほとんどいません。

生徒同士のいじめとなると、やはりおとなしい子がターゲットにされますが このおとなしいって子もただおとなしいではなくて、ちょっとみんなから嫌われてる子とか生意気な発言をするような子でした。
暴力で、蹴ったり殴ったりはなかったようです。(これはケンカの時だけ)
知ってる限りでは、自転車をパンクさせられたとか売店にパンを買いに行かされた。学食の順番取りをさせられた。 裸にされた。数百円取られた(たぶん昼食代)くらいです。

お金を取られたというのは、盗まれたではなく「ちょっと貸してくれ」という感じで 戻してくれる時もあるみたいです。
まぁ たくさん持ってない事と小銭を持たない事で だいぶ回避できます。小銭を持ってると音がするので狙われます。

これはよくやられます。全員がターゲット
ジュリー(沢田研二)の人気絶頂期の頃。山口百恵ちゃんの引退等ありました。
日常よく行われてたイタズラが存在してて、これは体操服と作業服を着替える事が結構あるので着替える時に 油断してるとパンツ(下着)を下げられる事があります。
まだこの年代だと、成長過程が各々違いがあるからおもしろがってやってたんでしょうが、時にやり過ぎって事もありました。

月に一回ほど、体育の授業が上級生と同じになる時があったのですが、同級生の間ではおとなしくしおらしくしてるY先輩です。下級生の静かな子らには 威張ってるので普段から嫌われてました。その体育の授業のあと 数人の上級生達が着替え終わったあと Y先輩を取り押さえシャツもパンツも脱がし、パンツは バスケットボールのゴールリングネットにわざわざ ひっかけて下級生の前でさらけ出させるという事がありました。
Y先輩は泣きながら、取ろうとしてましたが背が低いので とってあげました。(ホントはこいつ嫌いだったんですけど)
恥ずかしい思いをしただけのいじめです。
この絵はレイプされたみたいに見えますが違います。裸にされただけです。
この人珍しく白ブリーフでした。みんなの注目は白ブリーフ
もうひとつは、終わったあとに事実を知ったんですが、同級生のI君。←こいつもいつも生意気で友達もいないやつ。
I君の場合は、なんか開き直っていい方向にいったんですけど
修学旅行の時、いじめの主犯格T君(僕とは席が隣でよく話をしてた)が、なぜか ゴム手袋を修学旅行に持ってきてるので 不思議に思っていました。
夜、部屋でI君を数人で取り押さえ 真っ裸にしT型のカミソリで髪は剃り込みを入れられ 格好よく整えられ、あと はえそろったばかりの下の毛を全部剃られ、T君はゴム手袋は 生に触りたくないから使ったみたいですが射精するまでしごかれたみたいです。
T君が、自分らの部屋に来て「ちょっとおもしろいもんがあるから見に来てくれ」と呼びに来たので行ってみると、すでに服は着てましたけど 髪型が変わって その内容も聞かされたのです。T君は「こいつも男になった」とは言ってましたが これはやり過ぎでしょうと 本人も傷ついてるかと思ってましたが ちょっとそれ以降の学校生活でも、人格が変わって友達もできたようです。ちなみにI君とT君は 同じ中学校出身でした。
この後「明治維新」とニックネームがついたI君でした。
「ゴム手袋、そのために持ってきたん?」と聞いたのを覚えてますが返事は「あたりまえよぉ」と答えられました。
T君は、よく学校ではカセットテープ(エロ声がはいってるらしい)を聞いて喜んでいました。着替え中のパンツをズリ下ろすのも彼がほとんどです。が、進級出来ずにいつのまにが 学校から消えています。

※ ちなみにSONYの初代WALKMANが発売されたのは1979年夏に発売されてますが、たしか3万円以上でしたので買えるわけもなく T君愛用のエロカセットテープは カセットテレコという小型の録音再生が出来るもので聴いていたと 思われます。イヤホンも肌色のやつ。


恐怖のおたふく風邪
1年の時に、2年生のひとりがおたふく風邪になり しばらく学校を休んでいました。
あちこち 学校であるうわさが飛び交い「精子がもうできんようになった」とか「うつるから退学させろ」とか 「あの教室に行ったらつまらん」など。
しばらくして よくなったと思われる当人が 学校に出てきたんですけど、それまでサイドバックにしてカッコよく決めてた髪型は、鳥のヒナのような産毛みたいになってました。
 なので くわしくはわかりませんが 近寄りがたい人になったと思います。

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2018/03/22

1963年生まれの高二初めての入院の記憶


 高校2年生になって4月の終わり頃、バイトの新聞配達をしてる時でした。
その日の朝は天気もよく、とても暑くて それまでは フルフェイスのヘルメットをかぶり 長靴をはいて防寒着も着てたのですが、その日に限りって 販売店まではその格好で行き、自分のバイクから乗り換えるときに、薄着になってから配達に出かけました。

ヘルメットは当時、義務づけられなかったので 普段は雨が降ったり寒いから被るという感じだったので、ヘルメットも販売店に置いていきました。
ちょうど、山道ののぼりつめたところ 太陽が昇ってきていた為 光で 前方から車が来たのに気付くのが遅れたのか 正面衝突してしまいます。
頭から落ちたのになぜ足をやったのか 未だにわかりません。
これ以降あぐらを組むことが出来なくなりました。
ぶつかる瞬間、なんか自分のいる空間がゆっくり流れるように感じて 「あ~ぶつかる 間に合わない」って思った瞬間、弾き飛ばされます。頭から地面にゴリって音がして落ちました。
頭から出血もだいぶ あったのですが、右足が痛くて普通に立ち上がれません。

車の運転手も慌てて出てき、たぶん救急車を呼んでとか、近くにいた人達も集まってきました。
僕は、意識もあったし 病院に連れていくと言われましたが その前に 新聞配達が終わってないので 先に店に連絡してくれるように頼みました。
結局、救急車は来ませんでしたがぶつかった車で 病院に行きます。足が痛くて歩けなかったのですが 車の運転手がおぶってくれると背中をかしてくれましたけど 
僕のほうが 断然体格も大きく75kg(病院で測ったので覚えてます)あったので おぶってもらうほうが不安でしたから、片足で跳びながら 車に乗り込みました。

頭からの出血は額を切っていたからで、頭を打ったというので検査をしましたが 異常なしです。ただ、このとき生まれて初めて「縫合」してもらいます。黒い糸が縫うときみえてたので なんか 意外でした。

足は骨折ではなくて、骨が少し破損してると説明を受けましたが、かかとのあたり半分ギブスをつけられました。

病院には、新聞販売店の所長や母親などが駆けつけてきてましたけど、入院する必要はないでしょうと言うことだったのでいったん、家に帰り横になっていましたが 夜中、足が痛くなりまた病院に連れていかれ  入院することになります。
初めての入院です。中学の頃、盲腸の診断がくだされたこともありましたがその時は、手術せず薬で経過をみるということで免れてます。

病室が、空いてないという理由で、女の人の大部屋に入れられます。2週間ほど その部屋にいました。
おばちゃんがほとんどだったので、いつも食べ物をもらったりして 寝るか食べるかの生活でしたから肥りました。
病気で入院ではないから、普通に食欲もあります。
足の痛みは、横になってるときは 吊してもらえば 和らぎます。
入院中は、前出のばあちゃんが毎日 来てくれてました。店をやめてたので 時間があったのでしょう。

2週間をすぎてから 男の大部屋に移りました。6人部屋くらいだったと思うのですが、小学生がひとりとあとは たぶん社会人の人達でしたけど、中にはまだ動けない人もいて、ガラスの試験管の太いやつの先にビニールホースのついてる器具をはじめて見ます。
女部屋にはなかったものです。
なんだろうと不思議に思ってましたが、排尿の時につかうものということを知ります。
各ベッドにカーテンがついてるのですが その時は閉め忘れたのでしょう。看護婦さんが支えて排尿してるところを見ました。
その時、なんの目的かわかりました。
身体を拭いてもらってるところは見ましたが
これは、これはある意味衝撃的でした。
入院ってなって 足を天井からつられたときには これだけは回避したかったので自分はそこまで 重傷でなくてよかったって つくづく思いました。

松葉杖はなかなかうまく使いこなせずに いましたが トイレに行ったときに 病院のトイレの床がタイルだったので、松葉杖の先は ゴムなので豪快にすべって転び、ギブスがかかとから割れました。トイレにいっただけなのに怒られて新しいギブスになりましたが、もう一度割ることになります。

学年の初め頃に 入院したので実は学校の授業の単位が残り少なくなっていました。単位が足りないと進級できません。
なので、入院先の病院からも1時間だけとか 調整しながら授業に出てました。タクシー通学です。
入院の期間はひと月だったのですが 退院してもしばらく松葉杖が必要でした。また学校のトイレでも転倒しギブスを割ってしまいます。
入院中は病院では一度も入浴してないです。寝る、食べる、ウロウロするのみ。
その時は、もうギブスがちょうど取れるころだったので 新しいのはありませんでしたが、普通通りに治ったわけでもなく 2年生の間の体育の授業は ほぼ見学になりました。
ということで 体育の単位が残り1時間となり大ピンチを迎えます。

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2018/03/20

1963年生まれの高校生になりましたの記憶(その2)

1979年10月、誕生日が来るのをずっと待っててようやく16歳になり すぐにはいけなかったけど原動機付自転車の免許を取得しました。
バイク(原付)は ホンダのノーティダックスというものを手に入れます。
4サイクルの タイヤがでかい クラッチ操作のいるバイクです。
来た当時は、白のボディにステッカーがはってましたが(ノーマルの状態)ホイルは黄色でしたので 塗装してもらい 全体に黄色のバイクにしました。
そして、なにより免許を取ったことで 新聞配達も自転車からバイクで配達できるようになります。
配達できる数が多くなったので、給与アップです。とはいっても9,000円くらいだったのが 12,000円くらい。
1発で合格しないとクラスで笑われ者になりますので、
友達と使い回しの「ズバリ」とかいう問題集で久しぶりに真剣に勉強しました。
バイクに乗れるおかげでかなり行動範囲もひろがりました。

そこで、ラジカセを卒業してステレオを買ってもらいました。
マイクミキシング機能がある事を アピールしつづけ カラオケ(カラオケのブーム)ができると説明し、親に買ってもらいます。一部 バイトの中から出しました。
SONYのエアポートという レコード、カセット、ラジオ一体型のステレオです。毎日、タイマー機能で朝起きて時計もついてるし使わない日はなかったです。聴いてた音楽はほとんど アイドルの曲でしたが。ピンクレディーはもうブームが終わってます。
新聞配達が終わって店でペラペラ喋って帰ると学校に遅刻しそうになります。
ちなみに 部屋は4畳半のこんな感じでした。たたみです。
それから、身長は中学後半180cmから止まってしまってひょろ長かった身体も、体重が増えてきて75kgぐらいになります。身につけてるものや、洋服などにも興味が出だした頃でしたので、まずは下着は白ブリーフ(少年パンツと呼ばれてた)から デカパン(トランクス)に変わります。
なんか トラ柄とかチェック柄とかでしたけど。
ひとつ、学校の夏の体操服になるのがもうかっこ悪くてしかたなかったです。みんなも着てるけど、下はまだ我慢できますが 上が、ゴワゴワの四角い体操服で汗も吸い取らないような 綿のものでした。ありえないデザインです。しかも、乾きが悪くてカビが生えます。
男子ばかりなので悠長に着替えてたらパンツを下げられます。
クレアラシルという薬をCMで よく見てましたの買って塗布してましたが追いつきません。顔が真っ白になるだけです。
学校では3人ほどニキビ面のはげしい者がいて、担任に「ニキビ3兄弟」と名付けられてたほどです。
しかし、このニキビは 当時姉がミキモト化粧品のセールスの仕事をしてたので、母親が買ってた洗顔クリームで こっそり使い続けてると ニキビがなくなってきました。
ニキビ3兄弟の汚名は消えないけど…
減るのが 早いので見つかってしまい怒られるのですが 見つかってからは自分でその洗顔クリームを買ってます。
姉に試供品とかもらいましたけど、値段はチューブ入りで 1本 8,000円か6,000円でした。(たぶん姉の販売割引があって6,000円だったかも)
高いだけあって 効果てきめんでした。
あと コンプレックスのあった 友達はすでにボウボウだったのに皆無だった脇毛が生え始めニキビも半端ないくらいできました。

自分ではよく聞く 思春期の反抗期というものが ほとんどなかったと思うのですが、それは たぶん 自由奔放に親が干渉しない環境だったかもしれません。
よく友達の家に泊まりに行ったり、来たりが多くてもなにもいわれないし 勉強しなさいとか一度も言われたことがありません。ハムスターを買って帰ったときもインコやネコを連れて帰って時も、メインの世話は自分ですけど、一緒に面倒みてくれる母親でした。これが姉だとボコボコにされますけど。
この母親、こっそり鈴虫を飼ってる人でした。

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2018/03/19

1963年生まれの高校生になりましたの記憶

1979年4月、無事高校に入学しました。
工業高校の電気科です。クラスには40名で電気科は2クラスでしたので80名いたはずです。同じ中学から同じクラスになったのはひとりだけです。午前中は9時から3時間、午後から3時間で15時30分には終わります。1学期の間は、小学生以来の学級委員に任命されました。わりと成績がよかったようです。
この高校は県立の高校でしたが、1年の間は中学の時のおさらいみたいな授業でしたので特に必死に勉強しなくてもよかった感じです。

問題は1年生の1学期にある 伝統の上級生による指導です。
当時は、「しごき」と言われてましたが 要領のいいやつも逃れられない学校公認のものです。
授業がおわる休み時間近くになると 主に2年生ですが 廊下で今か今かと待ち伏せてました。
担任からも、乗りきるように説明がされます。「がんばれ」とか
休み時間になると大きな声をあげて 教室にはいってきます。
そして あいさつなど一連のことを新入生にやらせます。
一部、2年生の中に知り合いの新入生がいたりすると 教室から出してもらえますが、いつもそうはいきません。
これは、毎休み時間に1学期の間 ずっと行われます。

途中、歓迎遠足が1学期の中であるのですが それで終わりということになっているのですが 記憶では夏休みになるまであったような気がします。
遠足は欠席禁止と言われてました。
グラウンドでは野球のフェンスの金網に登らされて セミの鳴き声をやらされたり、あちこちで大きな声が轟きます。
この光景はよくみました。一度はやらされます。
同学年には女子はひとりもいなかったのですが上級生に二人ほどいたと思います。女子はこのしごきには参加してないと思います。

高校1年といっても、まだ中学生の時のなごりがあって顔も幼いし、身体も細いですが、体格のいいものはかなり 有利でした。
自分も体格というか身長が180ありましたから 先輩のほうが小さい人がほとんどだったので、あまり声を掛けられなかったほうです。
しかし、この伝統は翌年以降たしか禁止なってますから、自分等はそのしごきをやってないはずです。隠れてやってた者もいました。

通学は、自分の自宅がちょうど悪いところにあって距離が3km未満で、バスや電車は通ってなく 自転車か徒歩しか選択肢はありませんでした。
バイクは、距離が近すぎるので禁止でした。まぁバイクの免許は秋にならないととれないのですが。
自転車で最初の頃、行くつもりでしたが坂を上って下りを3回くりかえさないといけないので、自転車でも歩いて上らないといけなかったのでほぼ、徒歩でした。今みたい途中に自動販売機とかいっさいなかったので結構 喉乾いてました。学校にある飲水機だけです。
今、その通学路を通ってみると まずバスが運行されているし何ヵ所も自販機が設置されて コンビニやスーパーなどもできてます。
通学途中、ボタ山ばかりの風景だったのが変わってしまっています。
上ったり下ったりの道は全然変わってませんけど。
身長は中学からほぼ伸びてません。
中学の時は、坊主頭だったので野球部以外 髪を伸ばしはじめます。特例もいましたが。靴は「ちょん靴」かかと踏み履きか、学校指定の靴青いラインがはいったものをほぼ みんな履いてました。カバンは「ちょんバック」と言われたものですが、ほぼなにもはいってません。食べ物くらいです。
 抜き打ちで服装検査があり、実際は持ち物で 「たばこ」が発見される者もいました。即謹慎になるので 1週間ほど「自宅待機」になります。
僕も一度、服装検査で髪の染色で謹慎となり、真っ黒に染めるまで学校に来たらいけないという事がありました。
工業高校でしたので、実習服というものがあって いつ来ててもよかったのですが、ちょっと寒いときとか、それで通学してくる者もいました。あと、体操服があったのですが、今でいうとトレーナーとスェットみたいなデザインで 楽なので、そのままの者もいましたが、油断すると下は うしろからズリ下ろされて脱がされてしまうので、警戒しとかないといけなかったです。夏用の体操服は次回紹介します。
日数が経つにつれて みんな学生服が乱れてきます。
ズボンは「ボンタン」とか「ヨコスカ」とか呼ばれていたものを みんな履いてましたが 一部、ズリ下ろして履く方法の者もいました。
学生服の下は、基本Tシャツかトレーナーでした。

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2018/03/17

1963年生まれの僕の大正生まれのばあちゃん


父親のほうのかぁちゃん、つまり僕のばあちゃんは大正5年生まれでした。
自分より早くに息子をなくし 知ってる限り朝、昼、夕といつも仏壇の前にすわって お経を唱えてました。

ばあちゃんの家は、ちいさな食料品店でして 駄菓子屋に野菜や日用品などを置いてる店でした。かき氷なども作って売ってた気がします。
まだ 幼児の頃にわずかな記憶がありまして 朝、リアカーを引いて 市場に行ってたんですけど、そのリアカーに乗っけられて市場に着いていってました。
リアカーは、横巾がばあちゃんちの リアカー置き場にはいるように細いカスタムカーでしたが、はっきりはわかりませんが 僕の父が作ったと聞いてます。
絵ではおっさんみたいですがスリムでシュッとしたばあちゃんでした。

自分の兄弟や叔母、叔父(父の兄弟)に聞くところによると 僕はばあちゃんちに しばらく預けられていたようです。
そのときの記憶は たぶん リアカーに乗っけられてたという事だと思います。

小学3年か4年になって、はじめて 1人でバスを乗り継いで ばあちゃんちに 夏休みとかだったと思いますが行きます。
(ちなみに 父親は、このバス会社の運転手でした。まだ車掌さんがいて シートが縦一列になってたバスに生きてる頃 乗せてもらったような感じが残ってます。)


ばあちゃんは午後、店が暇なときには よくラジオを聴いてました。赤いナショナルのポータブルラジオです。
しかし、これだけは 僕が中学生になっても触らせてくれません。怒られます。このラジオは 実は僕の死んだ父親の残したものだったらしいです。だから 貸してくれなかったのでしょう。
もらっとけばよかった。
結構、勇気のいる行動でしたが ばあちゃんはちゃんと バス停まで迎えに来てくれてました。
ばあちゃんの家は、風呂がないので 近くの銭湯に夕方 いつも小銭をもらって行ってたのですが 小さい頃は 叔父や叔母に連れて行ってもらってたのでしょうが、ある程度大きくなると1人で洗面器に石鹸とかいれていってたと思います。シャンプーはエメロンシャンプー。←流行中
こんな明るい銭湯ではなかったですが、人は多かったです。
5,6年生の時に赤の他人のおっちゃんにほんの数㎜生えはじめを発見してもらいました。
銭湯を利用してる人達は、店の近所の人達ばかりなので、ばあちゃんの店にも買いに来てくれてる人達だったので 顔を知ってる人ばかりでした。
なので 瓶入りのヨーグルトやコーヒー牛乳を買ってもらうこともありましたが、買ってもらったことをばあちゃんにいうと怒られます。

トイレは、トイレというとなんか合わないですが便所ですね。これは惨劇でした。
階段を降りていってところにあったのですが、階段ははしごのようなぐらぐらしたもので、今考えるとよくあそこで用をたせたなと思います。
叔母は、当時 高校生くらいだったので嫌だったろうなと思います。
あと、三味線やオルガンを演奏しながら歌ったり レコードを聴いたり 時には 花札とかトランプで遊んでくれました。
それに、広告の紙やカレンダーで ゴミ入れ?箱?を折ってつくり その中にお菓子を入れてくれたり ばあちゃんに学んだ事もたくさんあります。
店のまわりは、炭鉱の社宅だった長屋がたくさんあり、店も結構 お客さんが多かったのだと思いますが、そのうち団地に建て変わったり すぐそばにあった小学校も移転し、スポーツセンターとかになって殺風景に年々変わっていきました。
このおかげで50過ぎてピロリ菌治療になったんだろうな。
余談ですが、飲料水は まぁばあちゃんちではないのですが 自分のうちの事です。
よく大きなヤカンをもたされて 井戸水を汲みに近所の家にいってました。2軒ほど井戸水が出る家があったので どっちでもよかったのですが
小さい頃は、ポンプ式だったのが ある日から お岩さん(当時あったホラー映画)が出てきそうな 滑車をつかった井戸に変わりました。
井戸の中を覗くのが怖くて明るいうちに汲みに行ってました。

2018/03/16

1963年生まれの僕の誘拐拉致事件


中学生になってたと思います。なので1976年か次の年の事。
夜中だったのですが、親はいなくて 10歳離れた弟と自分の部屋で寝ていました。

突然、すごい音がしました。
当時のその時の音の感じは テレビのブラウン管を割ったときの破裂する音だったです。
この音の感じ、今頃ブラウン管なんて なくなったから 伝えようが思いつかないんですけど、夜中静まり帰ったところに こんな大きな音は おそらく近所の人もわかってたと思います。
「かかわらないほうがいい」そんな感じでしょう。

弟はびっくりして 泣き出すし、音のした方へ行ってみました。
玄関の戸は 引き戸で全面ガラス張りのものでしたから その音のわけがすぐにわかります。
家の中に割れたガラスが散乱し セメントのブロックが投げ込まれていたんです。
なにか爆発したのかと思いましたが、意外と落ち着いてた。
そして、怖そうなおっさんが なにか声を荒げてはいってきました。弟の泣き声が激しくなるばかりで、そのおっさんの言ってる事もよくわかりません。
逃げることもできたんですが ちいさな弟がいるからそうもいきませんでした。

そして、弟と2人車の後部座席に無理やり連れて行かれ そのとき近所の家の人がカーテン越しにのぞいてるのは わかりました。「たすけて」とよほど言いたかったけど 弟も捕まってますから 騒がずに連れ去られました。

内心、ビクビクしながら弟をなだめてると 車が走ってから 間もなく うしろから猛スピードで追いかけてくる車がパッシングして僕らを乗せた車の前に止まります。
そして追いかけて来た車から人が降りてきて 言い争いがはじまりました。
別の人が僕ら兄弟の乗ってる車のドアをあけて 「逃げろっ」と助けてくれました。

そのあたりは 外灯もないし 自分のいつもの行動範囲の土地なので 弟を背にしょって、山のほうへ逃げこみしばらく隠れていました。
辺り一面、真っ暗の草やぶをはしり抜けました。
そんなに 長い時間ではなかったと思いますけど 潜んでいると母親の探す声が聞こえます。
それで 安心して母親の元に出て行きました。

そのあと 僕ら兄弟は家に帰る事が出来ましたが、親は 帰ってきません。警察とかに行ってたと思います。
僕ら兄弟は 何事もなかったかのように 普通に寝てしまったんですけど 朝になって玄関に行くと、そのままになってました。親もいつのまにか 帰ってきたようで 眠っていました。
その日、僕はふつうに学校にいって 誰にもそのことを話さずに過ごしてます。親に口止めされたからです。
理由も何も聞くなということだったので なぜなのかはわかりません。そして、年数がたってそんなことがあったと思うくらいで 今回 はじめて 文章にしてみました。

大人になって、弟にその時の出来事を聞くと忘れてはいませんでした。10歳離れてるから 弟は2~3歳のはずです。

2018/03/15

1963年生まれの’70年代後半娯楽の記憶


中学生のころは、朝は早くおきて新聞配達 そして学校へ行き放課後は部活のくり返しでしたけど 無性にみんなが持ってるラジカセが欲しくなります。
親には、自転車買うときにずいぶん出してもらったから 買ってもらえそうにありません。
数ヶ月、新聞配達をがんばれば買えるんですけど 親に立て替えてもらって買いました。

自分の欲しかった機種じゃないんですけど、付き合いをしている電器屋さんが「サンヨー電器のお店」ということだったので この機種になりました。
それでも、カセットテープの両サイドにスピーカーのあるステレオタイプのラジカセは まだあまり出回っていませんでした。
5万円くらいしたと思います。
コカコーラ好きでした。ホームサイズ(500ml)お店に空き瓶を持っていくと10円と引き換えてくれる。
扇風機は こんな感じのものがありましたが、もう壊れる寸前。リボンをなぜか結んでました。

当時はカセットテープも結構 高くてあまり買えなかったのですけど FMラジオ 録りまくりました。FM福岡とNHKFMしかなかったけど 放送の時間にあわせて ナレーションやCMの時は 一時停止をくりかえしといった感じで 音楽を集めてました。
カセットテープは60分、90分、120分が主流でしたけど 120分は伸びやすいと聞いたので 使ったことなかった。
そのあと 46分とか 変則50分や30分、10分とか様々な長さのテープがあったと記憶してます。
自分のライブラリーはのちに 46分ばかりになりました。(LPレコードが丁度録音できてたからかな)
それから テープの種類に ノーマル、クローム、フェリクローム、メタルとありました。
クロームはのちにハイポジと変わっていきましたが、フェリクロームは消えていったような気がします。メタルテープはもっとあとに発売されました。ちなみに 所持してるテープは TDK、マクセル、SONYが多かったけど何しろ 1本当たりの価格が1,000円とかしてたような気がします。

ラジオを録音するとき(エアチェックというらしい)ノイズが多い時には屋根の上にのぼってまでもやってました。
まぁこのラジカセはいつの間にかなくなったんですけど 初めて買ったので 覚えてます。

あとは夏休みとかは、自転車もあったので 隣の隣町まで友達と 町営プールとかによく行ってました。
まぁ プールは前出の バレーの時にできた 日焼けの焼けムラを軽減するためによくいってたんですけど 一向に泳ぐ技術は向上しませんでした。
泳ぎの技術向上しないのは このような事しかやってないからです。
プールとかボーリング場、スケート場や映画館などこの頃はたくさんありましたが、今はほぼ なくなっています。
遊ぶところってそんなになくて 電車でちょっと大きな町に行くくらいそんな生活でした。

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2018/03/14

1963年生まれの自転車通学と新聞配達の記憶


前回に続き まだまだ1970年代後半の事です。

中学2年になってから 友達に新聞配達のバイトしようと誘われ、バレーの練習
も朝はないので早起きさえできればできそうな気がしたのではじめました。
新聞販売店までは家から2kmほどはなれていて 5時半くらいまでに行って そこ
から配達を1時間くらいする作業です。学校に遅刻してはいけないので7時くら
いまでには もう家に帰れるようにしなければなりませんでした。
天候によっては1時間で終わらないときもありますし、チラシが多いときは時
間もかかりました。
でも学校に遅刻したって事はなかったと思います。

配達は自転車でやってたんですけど、最初の頃は 母親の今でいう「ママチャ
リ」でやってたんですけど、結構 坂とかがキツくて 自分専用の自転車を買っ
てもらいました。
一部新聞配達の給与から負担金がありましたけど。
まぁ、デザインはこのような感じだったと思います。ミヤタ自転車というのは
間違いないです。ハンドルを「一文字」というものに付け替えたり 新聞配達
の時に便利なように折りたたみ式のカゴをつけたり。行動範囲がぐっと増えま
した。
5段変速で坂道もずいぶん楽になりました。
新聞配達で得たお金は、主に自分の小遣いでした。一日100件弱 配達して
9,000円くらいもらえてました。それでも中坊にとっては大金でした。
これで、服を買ったりレコード(LP)買ったり。LPレコードは2,800円だった
と思います。コメットさんでおなじみの大場久美子のファンでしたから。あと
キャンディーズも。

3年生になると事情があって 家を引っ越す事になります。
学校から 3キロほどはなれた場所で、今迄近すぎて自転車通学は禁止区域だっ
たのですが それからは念願の自転車通学ができるようになりました。
しばらく そうしてたんですが 自転車通学は孤独だという事を自分で悟りま
す。
夏の制服はこんな感じでした。女子のスカートこれでも短いほうです。
なので、2学期から友達と時間はかかったけど 徒歩通学してました。
女の子と一緒に帰ることもできましたし。

通学路の風景は、今でもあまり変わってないけど 田んぼのまん中にまっすぐ
伸びた道があって途中 なにもないし暗くなると 外灯もないので 真っ暗の道
です。
車も 会う方がめずらしいという 交通量でした。
もうすこし前までは この道の終わりには 吊り橋がかかってあってなんどか渡
ったことがありますけど足場板2枚くらいの広さ(600mmくらいだと思います)
で 真下がみえるというちょっと 怖い橋でした。そのうえ 男には関係ないで
すけど 「痴漢」がよく出ていたという事です。
この通学路はひとりで帰るのはつらかったです。

でも、家が遠くなると結構 大変なんですけど 帰りに寄り道ができる機会がふ
えます。友達の家に寄って帰ったりとか 悪いことばかりじゃなかったです。

2018/03/13

1963年生まれの中学部活の記憶


時は、1970年代後半です。(ちょい長めの文章になります)
中学に入学すると すぐにバレー部に入部しました。
まぁ一学期の間は、3年生がいたので来る日も来る日も 球拾いでしたが夏休みの始めに夏の大会があったのでそれまでです。
本格的に練習を始めれたのは それからでしたが10月に2年生メインの新人戦があります。
2年生は4人しかいなかったので 1年生から、背のひくいやつが セッターに選ばれあとひとりは、アタッカーなんですけど
打たせてもらえるのはわずかなのでレシーブのうまいやつが選ばれました。
当然、自分は補欠のままで ラインズマンと得点をめくるやつに行っただけですけど、この新人戦 近辺の地域の大会で優勝してしまいました。
母校では、快挙でした。終わったあと優勝の賞状と全員で写った記念写真を額に入れ校長室の廊下の前に飾るという学校でした。
歴代のこのような快挙は飾ってあります。

問題は、優勝したからそのあとが大変でした。春の大会と夏の大会があります。負けられないという事で練習が厳しくなったからです。
月曜から金曜までは放課後、7時8時。当時は土曜日は半ドン(午前中の授業だけでしたのでこういう言い方)なので みっちり夕方まで練習。
試合前になると家に帰るの10時とかになっていました。春の大会は6月くらいだったので、すでに自分も2年生ですがこの大会も優勝だったと思います。この時も補欠なんですが、エースの3年生が最終の試合途中 足がつり急遽サーバーとして出ることになったのですが3セットマッチで1セット取られ3セット目の14対9とか大ピンチの時でした。
サーブは 当時2回まで打てたので、1回目は失敗しても大丈夫ですけどまずは 思い切って打つという事を教えられてますので何も考えずに打ちました。なんと、サービスエースを続けて14点まで追いつくことが出来たのです。
ジュースなのであと2点は3年生のアタックとかで、勝つことが出来ました。
のちに この事で新聞記事になり、夏からキャプテンになるきっかけになり苦悩の日々を送ります。
3年生の先輩達最期の夏の大会は夏休みに はいってすぐにはじまります。夏の大会は実は体育館ではなくて 外で行われます。この過酷な状況は自分が3年になっても行われました。次の年から廃止になりました。
なので、練習も外メインになります。太陽が照りつけ日焼けし また風が吹くとボールがそれたりと色々、大変でした。特にレシーブする時も体育館では気持ちよく飛び込んでレシーブしてもスーっと滑るのですが 外の小石がゴロゴロしてるところでは ゴリって感じで音がして滑りません。そしてあちこち傷だらけになります。
ちなみに夏の外で日焼けしたあとは、中途半端になるのが悩みの種でした。靴下やサポーター、はちまちの部分。それに着てる部分は日にやけないから裸になるとこんな感じです。
メンバー全員こんな感じ。たぶん女子も。プールとか海に行くと相当恥ずかしかったです。
でも、時が経てば楽しかった思い出と共に後悔もあります。もっとなんで練習して強くならなかったのかとか。まぁそれは先輩がいなくなってキャプテンになった時に自分を甘やかしてたからなんだと思います。
この夏の大会は2位でした。次の新人戦は自分らのメインのチームになりますが3大会とも優勝は逃します。最高2位であとは4位と3位。とりあえず夏の大会が順位が上だと次の大きな大会に出れるのですが、ここで勝てれば県大会にいけます。
しかし、うちの中学は県大会にいけるほど強くはなかったです。
中学の部活のメインは3年の夏休みで終わります。残りは後輩の練習の手伝いをしたり 実際には用なしになります。高校受験を頑張って勉強しろということになります。
話は1年生の時にもどりますが、ある日 1年生同士で 女子(相手も1年生)と練習試合をすることがありました。実は男子はそんなにバレーボールとかやったことない連中だったので 試合をしてもストレート負けしてしまいます。身長は男子のほうが断然大きいのですが 女子はよくレシーブします。なので女子は男子より強いって見下してみられていた事を バレーをやめてから女子のキャプテンだった子から知らされます。
僕はチームの中で一番バレーが上手くて キャプテンになったわけじゃないので(顧問の先生からも言われた)そのことが優勝できなかったと思ってました。女子のキャプテンは一番上手くて レシーブの見本にしろと 顧問の先生からもいつも言われてましたから一目置く存在でした。彼女はクラスが同じだったけど、引退してから結構仲良くなり 受験勉強会とかクリスマスパーティーとか数人に集まってやる機会には 一緒に遊んでました。
そのときに キャプテンの苦悩を聞かされて 自分の甘さに気がつかされたわけです。
ちなみに 当時の流行りというか運動着(スポーツウェアとかいわない)について
練習してるとひざがすぐ破れるので下だけ買換ました。
学校では、専用の体操着というものはなくて まぁみんな同じようなものでしたが、というか選択肢がなかったと思いますけど男女共に上は白の体操着(同じもの)下は 男子は白の木綿の短パン、女子は紺色か黒のブルマでした。冬は男子の短パンが長くなったズボンという感じでしたが、 ジャージというものが登場します。
テレビドラマで 山口百恵ちゃんの「赤い衝撃」でドラマの中で着ていた 黒のジャージでオレンジのラインがはいったものに注目がいきます。
早速、バレーの練習着に百恵ちゃんの着ていた偽バージョンと緑のジャージを買ってみました。メーカーは忘れたけど ミズノかタイガー(今はアシックス)だったと思います。靴とソックスはチームではミズノで揃える事になってましたが、僕にはミズノの靴は合わなくて 爪がハガレる事態になりましたので ひとりだけタイガーの靴でしたけど。ミズノは緑色が基調でしたけど タイガーは赤なので多分試合や他校の練習試合では 影でなんであいつだけ違うんとかいわれたようです。
ポイントはジャージの下にゴムがついてて足にひっかけって履くようになってたんですけど これはこれで 動きにくかったです。しまいにはみんなゴムをハサミで切って折り返してはいてました。それから、ソックスがずり下がらないように 新発売の「ソックタッチ」をみんなこぞって買ってました。
それから 男子だけの問題でもあった短パン。これも最初の頃は股上も短くてすぐに おしりの縫い目の糸が切れて破れる事もしばしば。
極めつけは、「はみちん ポロリ」です。女子も練習をそばでやってるので。
短パンは、新型になって股下が長くなり 両サイドにゴムが装備されたので太ももに密着する形になったので短パンは問題解決したのですが、ユニフォームの下は、スカートはいてるみたいに広くてこれは 先輩共々困ってました。
今みたいに、サッカー選手とかはいてるスパッツというものが存在してなかったので。(サポーターパンツというのはありました)
なので 最初は短パンの上に重ね履きして試合に臨んでましたが、体育の水泳の授業で使う海水パンツをはくことになりました。
圧倒的に女子のほうが守備力がよかったです。

部活とは別に、全員参加のクラブ活動というのもありまして、バレーの練習の時は隅っこで卓球の練習をしてるところにボールが飛んでいって迷惑をかけてましたけど クラブ活動は卓球をやってました。めちゃくちゃ下手くそです。ラジコンクラブに入りたかったけど バレーの顧問の先生が担当なのでこんな選択でした。

2018/03/12

1963年生まれの中学生になった頃


小学校まで 家から2kmほど 離れてましたから 30分くらい歩いて通学してましたが、中学校は2~3分ってところで、それもあって早く中学生になりたいって思っていました。

中学では 男子は全員 丸坊主が校則でしたので小学6年の3学期には早くから丸坊主にしてました。
3枚刈~5枚刈が主流

中学の入学当時の事は 正直 あまり記憶がないんですが 教科によって先生が替わるというのが 目新しく新鮮でした。

家も近いし、なにか部活でもしようと考えてました。
小学生の頃 ちょっとやった剣道にひかれましたが はかまの下 ノーパンが嫌だって事と 先輩にかっこいいのいなかったので、見渡すと バレー部がいいんじゃないかと思い 小学校の時に人形劇をやったメンバー2人と 入部しました。
3人の中で、一番背が高かったのですが そういっても2cm位の差で バレーも一番下手くそ。

でも、放課後 毎日練習しました。
4kmランニング、うさぎ跳びで神社の階段を登るとか ワンマンレシーブ等、もう家に帰ったらクタクタで 学生服を着たまま 朝まで寝てしまったこともしばしばあります。

ちょうど、背も延びてました。足のふくらはぎが毎日のように痙りました。改善の方法を先輩に教わってもう大丈夫でしたけどね。そのとき3年の生徒会長をやってたバレー部の先輩が167cm身長があるって聞かされて 早くそのくらいになりたいって思ってましたから その数値は記憶にあります。
しかし、すぐに追い越してしまいました。180cm弱まで伸びました。

それから、小学校の時には存在しなかった「男女交際」ブームがあります。交換日記というものが あちこちでやりとりされてました。自分も交換日記ってやったことがあります。(実は20歳になる頃まで)
ちなみに交換日記では、今日は俺が書いて明日彼女に渡し 彼女が読んで返事をかいたり その日あったことなど書いて、次の日にもらうのくり返しなんですが、鍵つきの日記帳とか売ってました。
いつ書いてたんだろうと思います。授業中かな

あとは 女子の闘い。2年3年の女子の先輩が1年の女子を体育館の裏に呼び出して 内容は様々でしょうが 指導するような事が行われていました。暗黙の了解があったのか 見に行ったり助けに行ったりは御法度です。
自分の交換日記の相手も 呼び出された理由はなんなのか聞いたところ、背が高すぎるとか言われたと言ってましたから まぁ何かにつけて 呼び出すんだなと 認識しました。
転校してきた子は スカートが短いって理由で呼び出されてましたし。そもそも デザインが違うし成長期だと短くなるでしょう。
男子のほうは そんなことは一切なかったけど 部活では 先輩後輩の格差は厳しいです。まぁ部活によってそういうことは教えられますけど、一生 そのことは身につくようになりますね。
呼び出しをする先輩の女子はほぼ バレー部の人達

勉強のほうは 進学校でもないし授業さえちゃんと聞いてればやっていける感じでした。