父親のほうのかぁちゃん、つまり僕のばあちゃんは大正5年生まれでした。
自分より早くに息子をなくし 知ってる限り朝、昼、夕といつも仏壇の前にすわって お経を唱えてました。
ばあちゃんの家は、ちいさな食料品店でして 駄菓子屋に野菜や日用品などを置いてる店でした。かき氷なども作って売ってた気がします。
まだ 幼児の頃にわずかな記憶がありまして 朝、リアカーを引いて 市場に行ってたんですけど、そのリアカーに乗っけられて市場に着いていってました。
リアカーは、横巾がばあちゃんちの リアカー置き場にはいるように細いカスタムカーでしたが、はっきりはわかりませんが 僕の父が作ったと聞いてます。
絵ではおっさんみたいですがスリムでシュッとしたばあちゃんでした。 |
自分の兄弟や叔母、叔父(父の兄弟)に聞くところによると 僕はばあちゃんちに しばらく預けられていたようです。
そのときの記憶は たぶん リアカーに乗っけられてたという事だと思います。
小学3年か4年になって、はじめて 1人でバスを乗り継いで ばあちゃんちに 夏休みとかだったと思いますが行きます。
(ちなみに 父親は、このバス会社の運転手でした。まだ車掌さんがいて シートが縦一列になってたバスに生きてる頃 乗せてもらったような感じが残ってます。)
ばあちゃんは午後、店が暇なときには よくラジオを聴いてました。赤いナショナルのポータブルラジオです。
しかし、これだけは 僕が中学生になっても触らせてくれません。怒られます。このラジオは 実は僕の死んだ父親の残したものだったらしいです。だから 貸してくれなかったのでしょう。
もらっとけばよかった。 |
結構、勇気のいる行動でしたが ばあちゃんはちゃんと バス停まで迎えに来てくれてました。
ばあちゃんの家は、風呂がないので 近くの銭湯に夕方 いつも小銭をもらって行ってたのですが 小さい頃は 叔父や叔母に連れて行ってもらってたのでしょうが、ある程度大きくなると1人で洗面器に石鹸とかいれていってたと思います。シャンプーはエメロンシャンプー。←流行中
こんな明るい銭湯ではなかったですが、人は多かったです。
5,6年生の時に赤の他人のおっちゃんにほんの数㎜生えはじめを発見してもらいました。
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銭湯を利用してる人達は、店の近所の人達ばかりなので、ばあちゃんの店にも買いに来てくれてる人達だったので 顔を知ってる人ばかりでした。
なので 瓶入りのヨーグルトやコーヒー牛乳を買ってもらうこともありましたが、買ってもらったことをばあちゃんにいうと怒られます。
トイレは、トイレというとなんか合わないですが便所ですね。これは惨劇でした。
階段を降りていってところにあったのですが、階段ははしごのようなぐらぐらしたもので、今考えるとよくあそこで用をたせたなと思います。
叔母は、当時 高校生くらいだったので嫌だったろうなと思います。
あと、三味線やオルガンを演奏しながら歌ったり レコードを聴いたり 時には 花札とかトランプで遊んでくれました。
それに、広告の紙やカレンダーで ゴミ入れ?箱?を折ってつくり その中にお菓子を入れてくれたり ばあちゃんに学んだ事もたくさんあります。
店のまわりは、炭鉱の社宅だった長屋がたくさんあり、店も結構 お客さんが多かったのだと思いますが、そのうち団地に建て変わったり すぐそばにあった小学校も移転し、スポーツセンターとかになって殺風景に年々変わっていきました。
このおかげで50過ぎてピロリ菌治療になったんだろうな。 |
余談ですが、飲料水は まぁばあちゃんちではないのですが 自分のうちの事です。
よく大きなヤカンをもたされて 井戸水を汲みに近所の家にいってました。2軒ほど井戸水が出る家があったので どっちでもよかったのですが
小さい頃は、ポンプ式だったのが ある日から お岩さん(当時あったホラー映画)が出てきそうな 滑車をつかった井戸に変わりました。
井戸の中を覗くのが怖くて明るいうちに汲みに行ってました。
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