2018/05/31

1963年生まれ40才半ば引きこもりになりそうな時期

1Kのアパートに住み始めて いつのまにか一番長く住んでる人になりましたが その間に最初は 必要最低源ではじめたつもりの生活でも 道具が少しずつ増えていきました。

ホテルの週1度の休みの朝には、コインランドリーにいって毎回洗濯をしてましたけど 数年後には とうとう洗濯機を買う事にし 置くところはベランダしかなかったけど買いました。それでも コインランドリーの乾燥機はよく使ってました。

それから 車が普通車だったのですが ひとりで通勤に使うだけで税金が勿体ないなぁとは思ってましたけど いつかの夏、エアコンが全く効かなくなって 修理工場に持っていったらかなり費用がかかると見積もられ ちょうどその費用よりも安い軽自動車が売られてました。エアコンもちゃんと効くし 車検も長い期間残ってたと思います。僕の車はもう時期に車検が訪れる頃でした。なので 5万円ポッキリの軽自動車を買ってみました。
スズキのセルボモードです。デザイン的には気にいりました。
年式とか覚えてませんが、スズキのセルボモードです。
雪道でもよく動いてくれました。
運が悪ければ すぐダメになるだろうし よければ数年乗れると思ったのです。
そして 車検の期間が迫ってくる2年弱の時に 調子がわるくなり また修理工場に持っていったら 今度は5万じゃないけど50万でダイハツのミラがありました。ちょっとへこみがありましたが目立たないので善とし、ローンを組まずに月賦で買いました。
ダイハツ ミラです。たしか走行距離も少なく年式も新しかったです。
あとから スーパーウーファーとか取り付けてiPodを繋いで音楽を聴けるようにしました。
手持ちの30万を支払って残りは 毎月、5万ずつ修理工場に持っていけばいいという感じです。この車は なかなか壊れなくて数回車検も受けましたし 通勤や買い物に行くくらいなら全然 問題ありません。一度 九州まで乗って行った事もありますが さすがに高速道路は ノーマルエンジンでは 坂道が厳しかったですけど 長い期間乗ってました。
車には、そんなに憧れはないのですが 大きな車よりは 小回りのきく車が好きですしずっと所有してた車は 小さい車ばかりになってしまいました。

それから アパートにはケーブルテレビの契約をしてネットに接続してたのですが テレビ放送は じつはテレビを持ってなかったのです。パソコンにTVキャプチャボードをつけてまして それで放送をみたり 時には録画してみてたりしてました。
パソコンのモニターが壊れるまでは テレビはそれで間に合わせてました。
海外の人とも筆談ならなんとなく。この頃の携帯電話は
Vodafoneの折りたたみ式シャープの端末を使ってました。
ネットはケーブルテレビで繋がってましたので安定して使えましたが、前にもちょっと書いたけど Skypeやマイクロソフトメッセンジャーというソフトを使って チャットやビデオ通話をするようになりました。マイク内蔵カメラというUSB端子に繋げばすぐに使えるようになったので 知ってる人はそんな事をまだ出来ない人ばかりなので 会ったこともない人を相手に遊んでました。このとき 思ってたのはひとり暮らしでも家に帰っても話し相手を確保出来ると。しかも その相手は自分と同じような考えや趣味を持っている人なので 話もはずみました。記憶では45才になった時に 睡眠不足とか元気もなくなったので 控えるようにしました。

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2018/05/30

1963年生まれ40代の半分トンネルにはいる。

38才から5年間、夜勤のみの生活になった。
勤務時間は午後7時から翌朝5時半頃までで 休みは一週間に一度。
勤務先までは車で20分もあればつく。アパートから駐車場まですこし離れていたので30分を目途にして活動していた。

仕事は ホテルのフロント係だ。ホテルといってもファッションホテルであり(俗にいうラブホである)なので お客さんと対面することはほぼなく、対面することを避けなければならない。対応するのはほとんどホテル内の電話だけだ。それになによりお客さんのプライバシーを守らないといけない。

実際には、顔は鮮明にわからないけど 防犯のため 駐車場から入室するまでは監視カメラにはお客さんは写っている。部屋の中に入ってしまえばもうなにをしていてもわからないので唯一 内線の電話だけ連絡が取れる。この電話もなるべく フロントからはかけるのは控えなければならない。

利用のパターンは休憩と宿泊とがあって 休憩で利用していたお客さんが宿泊に変更になる事も多々あるのでその時だけはフロントから電話をかける。
その時間が深夜12時前で、掃除のスタッフも12時で終わるため 12時からはフロントの係のみになる。僕の場合 ひとりでも充分こなせていたので 夜中から朝までひとりだった。週末など 忙しい時はアルバイトの人がひとり来ることがあったけど 長続きしないので何人か一緒に仕事をした。
こんな仕事は今迄の仕事とは無縁の内容で 男ばかりの職場から ほぼ女ばかりの職場に変わったし ラブホとか興味半分でしかふれてなかった場所なので 最初の1年間は目新しいものばかりで しかも お客さんは変わるから 色々な人が居るもんだと感じた。
これについて 本がかけそうなくらい お客さんが帰ったあとの部屋に足跡が残されている。
12時をすぎてからは 来るお客さんは宿泊料金になるのだが 高い料金を払ってもすぐに帰っていくお客さんもいるので そのときだけ帰ったあとに部屋の状態を見にいく。火の消し忘れとか 掃除のスタッフが来たときに お風呂の栓を抜いておいてあげると掃除が早く済む。忘れ物とかある場合もある。
深夜の仕事は主にこんな感じだ。突発な事が起こらない限り別段忙しいこともない。

それ以外は フロントのフロアーを掃除したり 駐車場の掃除をしたり 補充品を入れたりでそんなに忙しくはないし 社長からも本を読んだり遊んでてもいいが 寝るのだけはダメだと言われてた。しかし、そう甘くはなく 社長は思った以上に細かく 神経質なのか 朝、交替する時に色々 チェックされチビチビ言われる。なのでそれが嫌だったから 言われないように努めた。しかもフロント内は 監視カメラが設置されていたので 居眠りとかしていたら 録画されている。最初は2つのVHSのテープで自動切り替えにより一週間保存されていたが 途中からハードディスクレコーダーになったので 限りなく録画される。
なので 死角を探して行動するようにもなった。

客室はカメラがないので ゆっくりサボれるがドアの開閉時間が記録されるのでここも つっこまれたときは理由を考えておかなければならなかった。
まぁ 客室でサボるといったら 僕の場合 マッサージチェアーに座ってマッサージをしてたくらいだが 真剣にこれ 家に欲しいと思ってた。でも 考えると大きすぎて家には入らないし価格も簡単に買えるような金額ではない。
唯一サボれる時間。
しかし、客室に設置してあるイスなので最初は躊躇して座れなかった。

なので、夜中に15分程度使ってみたりした。腰が肩 それにふくらはぎが最高に気持ちいい。

朝方になると 少し眠かった気分がうそのようになくなり交代に5時半ごろ 社長がやってくる。そうたいした申し送りはほとんどないがそれがすんだら 最初のうちは風呂がなかったのでホテルのシャワーを浴びて帰っていた。1Kのアパートに越してからはそれはなくなった。
朝 帰るときは車も少なくヘタすると
にも会うことがない。少しおなかがへったら、帰りにコンビニによってなにか買って帰るが そんなにお腹も減らない。部屋に入るときは オートロックなのでアパートの入り口で暗証番号を入力して建物の中にはいっていたけど 何年か経過したごろ 壊れてしまった。不動産やは修理もしない。建物にはいるとエレベータで自分の部屋にはいる。
この間、誰にも会わない。部屋にもどりシャワーを浴びて 以前なら仕事から帰ったら ビールなんか飲んでいたがそれもしなくなった。
すぐに寝れるかといえば、ずっと昼夜逆転の生活を続けていると昼頃まで 眠気がこなくなった。
帰ってくるとシャワー 睡眠 仕事のくり返し。
特にやりたいこともなく人との接触を避けていた。

カーテンは厚目の遮光カーテンをつけていたが隙間から光がはいるので薄明かるい部屋でベッドにはいる。ダイソーで買ってきた目にかけるマスクが大活躍だった。夕方、目が覚めてからちょっとなにか食べて仕事にまたいく。このパターンで毎日を過ごした。
休みの日は 週に一回あったが 朝 帰ってきてその日が休みになるので一晩だけ夜 寝ることができる。でも夜になると眠れない体質になってしまっていた。当初、「プチ世捨て人」な 気持ちでこの生活にはいったが このままでは身体を壊してしまいそうな気がしてきた。

唯一、贅沢をしたとすれば ケーブルテレビに加入していたことだ。インターネットも固定電話もセットになっていた。
テレビ放送は休みの日の夜中によくみていた。そして インターネットで WEBカメラがある事をしり 見知らぬ人とチャットをするようになった。
日本の人だけではなく 海外の人とも。英語が全くわからないが 学校で習った単語だけでもなんとなく会話もできるもんだとわかった。
しかし、ほんとに伝えたいことを言えたわけもなく 隣国のハングルは全然わからないし 台湾ならば 漢字が使えるのでなんとなく取っつきやすかった。台湾の人はフレンドリーで日本語を学んでる学生とかがたくさんいたので 仲良くなれた。
台湾語の勉強も少ししようと 本など買ってみた。筆談ならばなんとか会話はできていたが 話したり聞いたりは早すぎて無理だとわかった。
でも もうこの頃から10年以上経過したけど 当時大学生だった台湾の友人は30代になり今でも FACEBOOKやLINEでやりとりはしている。

ホテルの仕事をはじめて人と話す機会が数時間のみだけだった生活からネットを通じて会話を自宅に居ながらできるようになったことは 寂しさを紛らわせてくれたし、行ったこともない国の生活や習慣を知ることができた。
そして、中学生の時に同じクラスにいた友人にもネットを経て 再開できたことも大きい。学生のほんの数年間接点があっただけなのに 名前もちゃんと覚えてる。不思議なことに働きはじめてあった人で数年同じ職場にいた人の名前なんてそんなに覚えてない。子供のころに覚えて事って人の名前に限らず大事なんだなって思える。

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2018/05/25

1963年生まれとうとう40代にはいる。

出張工事をしてよく利用していた旅館の奥さんから たまに電話がかかっていた。
そのときに 今の仕事をもう辞めるかもしれないと話していたんだけど リセットしたいと前回のエピソードで記したが タイミングよく また電話があった。
旅館の友人がホテルをやっているので そこが人を探しているという。
アパートからは100km以上離れて場所なので 引越をしないと無理っぽい。
そんな話をしていったん断ったいたんだけど 再び連絡があって とてもいい話をもらった。
旧客室を使う事はないので、そこの部屋を無償で貸すから越してきて ホテルで働かないかという事だった。とりあえず ホテルの社長とは面識もないので 面接をしてもらう事になり 旅館に行ってみた。
面接とは 久しぶりの体験だった。滅多にスーツも着なかったから
ボタンが留まらないのではと思ったが ギリギリ着れた感じだ。
社長は気さくで優しそうだったが…
数年前までは年に2か月は泊まってた旅館が なんかなつかしく感じた。
旅館の食堂で 履歴書を持って面接をしてもらい すぐにでも働いて欲しいという事になった。そのとき37才だったが もうすぐ38になる年だ。
今迄とは 全然違う職種。ただ 気になっていたのは前職の時の人達が この旅館に時々やってくるので 出くわすのが 不安でもあった。
仕事は 夜勤のみで夕方7時から朝5時半くらいまでだ。

しばらく 旅館の部屋でお世話になっていたが ちょっと迷惑をかけてしまい 旅館を出てアパートを借りることになった。ホテルの社長もそうしなさいというので、荷物はあまりなかったが アパートを探した。
見知らぬ土地で身内もいないから 最初目のアパートは断られ 町の小さな不動産屋でみつけたアパートは 母親が県外でも保証人は誰でもいいというので ホテルの社長が快く引き受けてくれそのアパートを借りることができた。引っ越しした日は忘れてない。クリスマスイブのものすごく寒い日だった。

はじめて1Kという部屋で 広くはないけど ひとりで住むには充分かと思った。オートロックもついていて余計な訪問者に会わなくて済む。そしてなにより静かだ。
前のアパートは裏に 田んぼがあったが 今回は裏に川が流れててその向こうにたんぼがありたとえ 部屋で裸でウロウロしても外から見えることはない。
長い間住んでいたアパートだった。人生最長記録の7年間。
狭いながらそれなりに過ごせた。基本夏場はエアコンつけてるけどトランクスだけで裸でいることが多い。
ベッドも折りたたみ式にしたが 滅多にたたむことはなかった。
この部屋の条件として ガスと灯油は禁止となっていたので とりあえずミニキッチンがついてて 電熱器のコンロがあったけどお湯を沸かすだけでも かなり時間がかかる。
使えないと判断したので カセットコンロを使う事にした。おそらくカセットコンロも禁止なのかもしれないが 契約書には書いてないし 調べに来るわけでもない。

いざ、働きはじめるとまずは ホテルの部屋の仕組みを覚えるために毎日 数時間部屋の掃除を女性のスタッフに教わる。風呂掃除は15分以内で終えなければならない。水滴を残らず拭き取って 最後によく見て 毛が一本も落ちてないように。これが基本だ。
掃除した本人の毛が落ちることもあるので 後ろ向きに出てくるように教わる。
最初は15分では無理だったけど 一番早く掃除できるようになった。
あまりきれいな仕事ではないと感じていたが気にならなくなる。
それから 風呂用の洗剤で手が荒れるので フロントの仕事をしてるとき お客さんとの接客で手をみられるから 荒れないようにちゃんとケアするように言われた。
要は ハンドクリームを塗って 爪をちゃんと短くしとけばいい。そう解釈した。
約1ヶ月間 前半は社長からフロントの仕事を教わりながら 掃除を覚え後半はその奥さんから仕事を教わり 今迄とは全然違う みたこともないものや経験をし仕事を覚えた。
朝方 アパートに帰る時は ほとんど対向車もなく 人に会うほうがめずらしい感じだったが オートロックを解除して部屋にはいるともう誰とも会うこともない。
密かに 平穏に生活するには最高だった。それで2~3年経過したが 僕も40になり 話す相手は職場の人だけで それも 勤務時間の半分だけ。夜勤12時から朝までひとりぼっちで任されたいたので話し相手もいない。唯一話すといえば 宿泊してるお客さんの対応だけだ。それでも 自分で決めた事なので5年間 夜勤のみの生活を続けた。

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2018/05/24

1963年生まれ37才リセットしたいと思った。

製缶の職場に転向してから 2年ほど過ぎた頃 出向してきたときとは 経済的にも環境が変わってて 収入も激減してましたので 出向のまま その仕事を続けるのは厳しくなってきました。出向先の社員もたいして収入は変わりませんでしたが 唯一 不利なのが昇給や賞与があるのと ないのでは全然違う事になります。

そんなこともあって 九州の事務所に色々 マンションの事とかもあったから相談をするためにちょくちょく 電話をしてました。
相手は、社長じゃなくその奥さんです。社長は他の事なら色々 相談に乗ってくれますが「お金」という事になると 奥さんに丸投げしてたから 相談にならなかったのです。
なんかあれば 家族同然なんだからすぐに電話なり連絡するように 言われ九州を出来ましたけど、所詮 他人であるしその言葉を鵜呑みして信じてた僕が甘かったんだと思います。それまでの事が走馬灯のようによぎり 悩みはじめました。

決して 人のせいにするわけじゃないのですが 全てが出会ったために狂った。そう思い始めたのです。もしも あの時…って事がたくさん思い浮かんで 離婚もしなかったかもとか子供と別れる事もなかったとか そんなふうに悩み続けます。
過ぎたことは仕方ないと 自分に言い聞かせました。

ある日、九州に給与の前借りを頼んだことがあって 電話したときは「今からすぐに振り込んであげるね」と言われ 電話を切ってから時間をおいて 昼休みと休憩時間 そして帰りにATMでお金を引き出そうとしましたが 残高不足なので出ません。すぐに送金してくれると言ったので信じてたんですけど なんか手違いでもあったのかと思い 再び電話をしましたが 事務員に不在と言われ 次の日の午前中にも電話しました。そのときも不在。昼休みも不在。なんか不審に思い始めて 同僚の子の携帯を借りて まずは自分の電話でかけて事務員に不在と告げられ もう片方の手で電話をかけると 居ました。
なにかにつけて相談したりしてた自分も悪いのですが
甘えていたんでしょう。
事務所は電話回線が複数あるのは 以前事務所に勤務してたからその辺の事はよく知ってます。同時に電話がなれば事務員以外の誰かが電話に出るということも。
間違いなく 事務所には奥さんは居て僕からの電話を拒否してる事が確認出来ました。
ならば 最初からすぐに振り込むとか言わなかったらいいのに そう思ったのですが 数回ATMに通った事、電話も数回かけて居留守を使われたこと それだけのことでしたが 時がたつと こんな風になってしまった関係につくづく 嫌気がさしてきました。まぁ結局はお金なんですけどね。

会社のメンツを考えて 出向したり やらなくてもいい作業員の面倒をみたり様々な事が後悔にしかなりませんでした。

もともと 「心配するな 大丈夫。なんとかなるさ」って 困難に遭遇するたびにそれで乗りきってたけど この時の状況や立場全てを失っても 逃れたいと感じるようになり 準備をすすめました。社長の奥さんはもう信用しない。すべてが整って 最後に社長に電話をして辞めると告げる事にしました。
出張に行ったとき どこかの旅館にかかってあったこのフレーズがずっと頭の中にあります。
大丈夫と心配するなは 逆かもしれませんが 一休さんの残した言葉らしいです。
たしかに なんども気を紛らわせて助けてもらったと思います。
アパートにあった荷物も出張に行ってた時に持っていってた荷物以外はぜんぶ 処分し作業服なども全部 ゴミとして捨てました。アパートを出るとき 持っていったのはノートパソコンと着替えとか それに車の冬用タイヤくらいでした。

いよいよ社長に電話することになり あっさり解放してやるというような事をいわれましたけど 考えてみれば 九州に戻ってもそれまで監督として九州の社員を使ってたり自分の会社から受けた損失を考えると 使いづらいし不要だったのだと思います。
元請の大阪にある会社から 現役中はよく指名されてましたけど そこの社長が僕が欲しいと人づてに聞きました。でも、そこにいけば安泰ですが 九州の会社と取引もしてたので接点がないように配慮するとまでいってもらえましたが 万が一って事もあるし 配慮してもらっても自分に制限がつくようになるので 断ってもらいました。

これからどうするか? 当時は出会った人すべてをたちきり リセットできるならそうしたい その思いだったです。なので 携帯もdocomoをやめ J-PHONEに換え 平穏に目立たなく生きていこうと思った37才でした。

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2018/05/23

1963年生まれひとり暮らしでの不便と思うこと

30才をすぎて ひとり暮らしになりその後 5年ほどはほぼ 共同生活のような感じすごして来たのですが35才から 普通にひとり暮らしになってしまいました。
ひとりで生活していると やはり困ったこともあります。
人間の三大欲というのは、ひとり暮らしでも問題なく克服できるのですが  幸い大きな病気にはなったことないのですが 熱を出したりしたとき これが思い当たる節で一番 困りました。

まれに 高熱になって動くのも嫌だって時が 訪れるのですが 職場の上司からは病院に行きなさいとか言われますけど 行きたくてもだるくて行けないって事がありました。
とりあえず、力を振り絞って病院とかに行きますが 行ったからといってすぐには治るわけでもなく 家にいると食事もしなければなりません。

熱が高いときには 病院でポカリスエットを飲みなさいとか言われたことがありましたが 大きいサイズのものを なんとか買って帰って コップに入れて飲むとしても 今度コップを洗ったりするのが億劫になってましたから 熱が出た時用に紙コップや紙皿 わりばしを常備するようになりました。そのなごりで今でも、お箸は普段からわりばしを使ってます。
数年に1回くらい高熱になるときがあります。あと目の腫れ物と腰痛が頻繁に起こります。
大腸がんの検診はおなかがふくれて我慢しなさいと言われ苦しかったです。当時2,000円也。
熱が高い時に 病院にいって治り掛けの頃 一度 血便が出たことがあって 薬を処方してもらう際に ついでに先生にみてもらったんですが この時初めて大腸がん検診の予約をして受けてみました。最初に観てもらったときは 先生がゴム手袋をしてお尻に指を挿入して観たときは 痔でもなく おそらく傷ついて血が混じったのでしょうが 念のため大腸がん検診を受けなさいという事だったのです。食事を抜いて健診を受けたのですが 問題ありませんでした。実際 初めての事でしたけど 肛門に指をいきなりつっこまれるなんて ちょっと驚きました。子供頃は、座薬を入れるときに病院で触られた以来の事でした。

それと前回のエピソードにも少しふれましたが 職場で鋼材に躓いて そのとき走っていたのでかなり先まで飛び出して転倒したことがあったんですが よくはわからなかったけど左手をひねったと思うんですが 手首を曲げるのが困難になったことがあるんです。
その日は 我慢して仕事をしましたが 夕方 仕事を終えて帰る途中 病院に寄ってみました。骨には全く異常なく筋を痛めてるといわれ 少しの間 ギブスをしておくようにと 左手肘から指の付け根くらいまでギブスで覆われました。
ひとり暮らしの不便さをはじめて痛感しました。
アパートは2DKで裏は田んぼで静かなところにありました。
ちょうど 暑い時期だったので 汗も多いし 風呂にはいらないといけないのですが 片手にギブスをつけたらどんだけ 不自由か身にしみました。この時 家に家族でもいたらよかったなと痛感しました。食べたり飲んだりはなんとかできますが 着替えたりするのはすごい時間がかかって 着るよりも脱ぐほうが大変とわかりました。
風呂にはいるとき ズボンやパンツは簡単に脱げますが上のシャツは結構たいへんで またギブスが濡れないようにするためにビニールの袋をかぶせて風呂にはいりましたけど 根元を結ぶのが口と片手だけでやってて 時間がかかり 今度は ほどくのもうまくいかずイライラでした。
仕事のほうは 溶接とかの作業は片手では無理なので フォークリフトやトラックの運転などさせてもらい出来てましたが  朝は 年下の同僚が安全靴の紐を結んでくれたり助けてもらっています。溶接の仕事をしてないので かろうじて職場の風呂に入らずに帰れましたけど 家に帰るとひとりなのでまた 時間をかけて着替え 何日かすると風呂上がりは面倒になってきて 部屋の中ではパンツもはかずに裸で過ごしてました。
レースのカーテンだけじゃ全部丸見え。
自分もと思うとゾッとしました。
ついでに このような事もありました。
住んでたアパートは2階建てで横に繋がったありふれた建物でしたが 僕の部屋は2階の一番端でとなりには やはりたぶん僕より少し年上の男性が住んでました。
窓から外をみると裏には 田んぼがひとつあって細い道があります。滅多に通る事はなかったのですが ギブスも取れて 夜遅くなったときに その道を通ってアパートに帰る途中 自分の住んでる部屋のほうを 車を運転しながらみてみると 自分の部屋は もちろん真っ暗ですけど 隣の部屋の灯りがついてて 隣の男性が僕と同じように裸で部屋の中にいるのがよく見えてました。ということは…僕も外から丸見えだったということになります。レースのカーテンをしてましたけど 隣の部屋もそのようです。

部屋からは外を見ると真っ暗でなにも見えないですけど 逆に真っ暗なところから明るいところはよく見えるということに気がつきました。
若い時に、大工の師匠がよく言ってた事をなんとなく思い出しました。なにが起こるかわからないから身なりだけはちゃんとしておきなさい。あぁなるほどなって感じた瞬間でもありました。男なので興味深くみる人もいないでしょうが 女の人は気をつけたほうがいいですね。
ちなみにとなりのおっさん、挨拶もしないし不動産屋に目覚ましがうるさいと苦情を入れたれた事もあるので 教えてあげてません。

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2018/05/22

1963年生まれ35才新たに職種をふやす

出向先の会社で 段々 出張工事に行く機会をほぼなくされたので余剰人員扱いでしたが とりあえずそこの所長に気に入られてたので 工事とは関係ない仕事を与えられ 色々と仕事がない日はありませんでしたが 自分自身がなんとなくこのままではいけないって思うようになってきました。
そこの社員ならばそれで よかったんですが よその会社の子ですから ほぼ同じように福利厚生などは受けられましたけど たまに仲間はずれにされることもあります。
割り切りが出来てたからいいのですが 出向先から自分のところに社員にしてあげたいが九州の会社が手放さない限り 引き抜きのような形になるのでできない。そう言われました。

そして 僕はこのまま雑用でいるよりは いつか工事現場に行けたときに役にたつし 自分もやってみたかった製缶の仕事をできるならやってみたいと希望を出します。
この話は出向先の会社にとっても 自分にとってもメリットのある提案でした。
ただし、条件もついて 工事の人員不足の場合はそれもやってもらうという事がついてきました。よほどの事がない限り呼ばれる事はないと思ってましたけど 元請から指名されるということを忘れてました。なんどか短い出張でしたが行きました。
溶接をしてると紫外線が強烈なので日焼け止めを塗って作業しないと
年とってシミだらけになるそうです。なので真っ白になって若い者は作業をしてました。
溶接粉が飛び散るのであちこち火傷します。
製缶の仕事は、初心者なので一からで すでに35才になってましたから若い者優先で仕事を教えていきたいと上司の人に最初に言われました。基礎的な事と仕事の流れをおぼえれるように言われてます。それでもやったことなかった 溶接を習う事が出来ます。
おとなしく 平穏に過ごせたらいいなと思ってました。
まずは 技能講習にいってアーク溶接とガス溶接の終了証を何日間かいって取得しました。会社負担で行かせてくれるので 自分の財産になります。
それまでは、フォークリフトやショベルローダー ホイストクレーン 玉掛など持ってましたが製缶の仕事で問題なくできる様になりました。
ただ 溶接を習い始めたのは工事現場で使う物とは違い半自動の溶接機で 工事現場では使えないなとは 思ってましたけどだんだん 工事の事は頭から離れていき自分には関係ないやって思ってました。

溶接の作業は、冬場はいいのですが 夏場は思った以上に暑くて太ってる人が少ないのもうなずけます。尋常じゃない汗と作業場の暑さで太りかけだった僕もたいして痩せることはなかったけど抑えることは出来たようです。
一番下っ端になったけど おとなしく平穏に過ごす事に心がけました。
若い人のほうが先輩になるので決して出しゃばらないように
夏場は 汗を流して帰らないと下着もびしょびしょになります。
そして、工事現場で味わった工期や責任がなくなった事、仲間がいつもいて自分で抱え込まなくていいようになったことで このときは快適そのものでした。たまに工事現場に連れていかれましたが 面倒なだけでなんの苦痛もありません。
仕事をはなれれば 今迄なかった ビアガーデンに行ったり 健康ランドやカラオケにいったりとか 職場の人と遊べるようにもなりました。
ただ、腰痛はたまにあって仕事を休む事も多々あります。
左手を先について ひねったようでしばらく痛みがなくならず
病院に行くと ギブスをつけられ 着替えとかが たいへんになりましたが
職場の若い子たちが 着替えを手伝ってくれたりサポートしてくれてました。
一度転倒して豪快に転んだことがあるのですが その時 腕をひねってしまい数日 ギブスをつけていたことがあったんですけど まわりのひとが色々面倒をみてくれギブスしてても 出来る仕事をさせてくれ休まずに済んでいます。安全靴の紐を結んでくれたり着替えを手伝ってくれたりほんとに世話になってます。そうなると自分も必然と代わってきました。

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2018/05/21

1963年生まれ30代なかばの頃

工事現場の監督は 実質岡山の仕事以降 任されることはなくなりました。
出向先では 新人が数人はいってきて人員は足りるようになり 若干工事現場も少なくなってきてる状況でした。こうなると よその会社から出向させておいていた僕はいらない人員になってきます。しかし、返せない理由もありました。
元請から 指名で呼ばれる事があったからです。
なので、この時期は事務仕事やったり 新規の事業の手伝いをしたりあれこれ仕事をさせられます。出張工事で人員が足りない時は 監督補佐として行かされ
当時、「この仕事は出来ない」って思われれば こんなに仕事をやらされる事はないって思ってました。たとえば運転免許をもっていても 大きなトラックは新人は怖がって乗れないから 代わりに運転してやってくれとか仕事も多く 荷物を運ぶだけで岐阜県なんかにも行かされました。唯一 その時出来なかった仕事は 作業場半分を占めていた 製缶の仕事でした。

溶接関係を、全くやったことなく出張工事の時も 稀に溶接をしないといけない事があったのですが ちょっとだけ溶接したいとかあったけど そのたびに 溶接の出来る人を雇ってました。自分で出来ればっていつも思っていたのです。
どうせなら 自分も溶接を少しくらい出来るようになりたいと思っていたので 暇なときはそこにいって作業してる人の仕事を見に行ったり(邪魔しにいった)して 自分もこんな作業したいとかふと、もらしたかもしれません。

一方、出張仕事は激減してましたので 自宅(アパート)で 規則正しく 朝、出勤して夕方には帰ってくるというような生活パターンになりました。当然 収入も激減しました。
家では、今迄出来なかった事とかやりたかった事が出来るようになり それはそれで充実してます。まずは 近くのレンタルビデオに行き 数本ビデオやCD等を借りてきては数時間 映画をみたり CDをMDに録音して集めてました。離婚して数年間 CDを聴いたりすることがほとんどなくなっていたので その当時 流行ってた曲は小室哲哉の曲が多かったのですが まともに聴いたことなく(ラジオとかでちょっとだけ聴いた)CDを買ったり借りてきたりして聴いてました。MDのハードも 昔からSONYが好きなので MD WALKMANを買う気満々で 近くの大型家電店数店を回りましたが 再生専用はたくさんあったけど 注文して待ちきれないので 初めてKENWOOD製の録音できるポータブルMDを買いました。
車もMDが聴けるようにと最初はその ポータブルMDを繋いできいてましたが MDが聴けるカーステレオ(SONY製)に付け替えてます。
等速でしか録音出来ませんでしたが 便利さはカセットテープにはない便利さがありました。
数え切れないほど 録音しまくりました。
他には 仕事帰りに寄ったコンビニになぜか PlayStationが売ってたので 急に欲しくなりたぶん19,800円だったと思うのですが買って ゲームも始めました。
のめり込んでゲームやってて気がついたら朝方近くになり 仕事を遅刻することもありました。
そして インターネットなど やれる時間もできたので アニメーションを作りホームページを作ったり それにネットを通じて出会った人なんか友達も出来ました。メールのやりとりして あった途端にイメージが違いすぎてそれっきりなんて人もいます。
これ以降映画館には行ってませんが最後に観たのは「タイタニック」です。
露天風呂は隣県まで行ったりしてました。夜がほとんどですが
会社の若い子とも家に呼んだり遊びに来てくれるようになったので 仕事中心でほぼ共同生活で過ごしてきた出張ばかりの数年間から 生活環境が元に戻った感じです。
パソコンの自作とかやりはじめて なんか作ってるイメージがついてしまい
当時、まわりの人から噂されてた僕の事は それは
「アパートの一室で火炎瓶とか爆弾を作ってる」と、言われてたようですが 作ってたのはFLASHアニメーションや プラモデルです。プラモデルも塗装道具にコンプレッサーとか色々揃えましたけど。とにかくやりたかった事がたくさんあった時期です。
体型がこの頃から体重が増え始め 背も大きめなのでひげそりを怠けると「熊」と呼ばれてます。
体重80kgくらいから90kg弱まで増えました。
作業ズボンがピチピチになって来ます。
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2018/05/18

1963年生まれ34才最後の再会

広島に移り住んでから1年過ぎた頃 ちょうど子供の冬休みの時期(1996年)元嫁から連絡があって 娘がパパに会いに行くと言ってるというので 新幹線に乗ってひとりで来てもらいました。小倉駅の乗り場まで母親が送っていって 僕はどの車両に乗ってるのかを聞いて ホームまで迎えに行きました。なので降りるときに間違わなければ大丈夫と安心してました。
久しぶりにあったせいか しばらくパパとは呼んでくれなかった。
娘は小さい頃から 母親にはおかあさんと呼び 僕にはパパと呼んでました。
新幹線から降りて来るまで 相当不安でしたが 問題なく降りてきました。
本人も 乗ってる間緊張してただろうなと推測できます。
当時 僕は娘はまだ4年生か5年生と思っていたけど 6年生になってすぐに中学生になる年頃だったんだと このブログを書いてて計算してみて気付きました。
新幹線が到着すると ホームで待ってると1年ちょっと前会った時より背も高くなって成長しててちょっとびっくりしました。最初 本人も久しぶりだったから 緊張してた様子です。駅を出てふたりで街を歩いてみました。手を繋ぐのに僕は抵抗がありましたけど彼女は平気なようです。ちょうど クリスマスだったので 欲しいものを買ってあげるからと話すと、相当迷ったらしく 選んだのは NINTENDO64でした。プレステじゃなくていいのかと 何度も聞いた覚えがあります。娘は遠慮して本体だけでいいというけど ソフトがないとなにも出来ないから ソフトも一緒に買ってあげました。たぶんマリオカートを選んだんじゃなかったかなと思います。ほんとはそのゲームをしたかったのを あとで話してくれました。
夜になって食事をする事になって 外に食べに行こうと誘ったけど 断られ 家でなんか食べることになったんですが 娘を連れて飲み物や すぐに作れるものを探しに買い物に行き材料がひとまとめになった 鍋セットがあったのでそれにしました。
でも、やっぱりなんか緊張してるみたいな様子です。
お風呂に入ってもらってその間に 小さなテーブルの上にカセットコンロを置いて食事の準備をしました。(元嫁から電話をもらったときに、風呂とか一緒に入ったらダメよと強く釘を刺されてましたけど 自分のほうが恥ずかしくて、ありえないと言った記憶があります)そういえば、小学1年生の頃まではいつも一緒にお風呂はいってたから 元嫁にはそのイメージが強かったのでしょう。あともう第二成長期に入ってるといわれてました。
なんか もっと手の込んだもの作ってあげなよって言われそうですが
普段から家に居ないしカセットコンロをよく持ってたもんだと自分をほめてやりたいです。
そ、ガスを止めたれた時の対策で買っていたのです。
食事をしながら どんな生活をしてるのか学校はどうか等 話してるうちにやっと 緊張もとれたのか 小さい頃の娘にもどった気がしました。翌日から 家にじっとしてるのもなんなので 近畿に住む兄の家に連れていくことにしました。いとこの兄の娘もいるのでちょうどいいかなと。車で行ったので時間は結構かかりましたけど 小さい頃は「だまれっ」って言うくらいしゃべってたのに 成長したなって感じました。
兄の家に行くと ここも久しぶりに会ういとこ同士 年もひとつ違いなので すぐに仲良くなって部屋に閉じこもって遊んでました。兄の子は人見知りするのでどうかなとは最初不安だったんですけど いっぺんに不安もなくなりました。しかし 叔父の僕にはやはりひとみしりでしたけど…。正月の間 兄のところで過ごして家にもどり そろそろ 娘も帰らないといけない日が来ます。
元嫁にも 何日までに帰してと言われてましたし 学校もはじまるので仕方ないです。
また 新幹線のホームまで見送り 指定の新幹線に乗せてついたら絶対電話してといって
別れます。2時間もしないうちに電話があって帰りついたというので安心してましたが 自分の部屋に帰ると、さっきまで ここにすわって居たなとか こんなこと言ってたなとか蘇ってきて 3枚ほどしか写してない写真を見ては さみしさと闘いました。
でも、この時 これが最後の別れになるとは思ってもなかったです。
また 会いに来るねって、電話するねって約束したのに…時はどんどん進みました。

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2018/05/17

1963年生まれ34歳壊れてきた自分

現場の経験数もあまりないのに 現場監督として(本人は責任者感覚で監督という意識はない)人員不足か もしくは 過酷な環境の現場だからか 出向先の工事部門の上司に 東海地方の工場がある現場へ連れて行かれます。ここは新設の現場なので 監督補助として連れてこられたんだと思ってましたが いざ 着工すると お客さんに挨拶だけ済ませて帰って行きました。当然、お客さんは僕が監督だと思っています。

作業のほうは いつも一緒にやってる人達なのでいいのですが 新設となると色々な問題が発生します。舗装されてないし他の業者との兼ね合いとか色々です。
そして 大きな問題は 初めての仕事なので工程がよくわかりません。工程表を作って提出するのですが 他の業者と被ったりしてその調整とか毎日 頭を悩ませていました。

当然、自分だけでは無理なので工事部門の上司とかに電話連絡して相談しますが、この人も本来は 工事現場に出てやってる人ではないので 段々信頼性が欠けてきました。
「工程に追われる」この時から このことが自分にとってとても重い事になってきました。
それまでも 工程に追われるということはあったのですが 経験があったのと自分でどのくらいでやり遂げれるという感覚を持っていたので間に合っていたので そんなに重いものではなかったけど この時は違いました。職人さんに相談しやれるだけのことはやって間に合わ
ない時は仕方ないと励まされ 毎日 夜遅くまでやって貰いました。
なんでも出来るわけではないけど、
自分の出来るちょっとでも手伝える作業はやってました。

僕の出来る事は 作業は型枠を作るのを手伝う事くらいしか出来なくて これは手が空いた時に自分のペースで出来るからで 他の問題等があったらすぐにそこに行けるからです。
それから 毎日遅くまで仕事をやって貰ってるから なるべく職人さん達には仕事以外の事で煩わせたくないので 作業着の洗濯や食事の買い出し等 思いつく出来る事はやりました。携帯電話の支払とかも 代わりに支払に行ってました。
その甲斐あって 工程よりちょっと遅れましたが ペナルティも発生する事なく終了しましたが、ここの仕事が終わり頃に 上司がやってきて自分が指示して終わらせたみたいな顔して お客さんのところに挨拶にいってましたが それは職人さん達がやってくれたから出来た事です。
そして次の現場を言い渡されます。帰らずにそのまま同じメンバーで直行という事で 言われたことに従い 岡山の山奥にあるまた 新設の現場に行きました。
1997年34歳の時です。家を出たのが10月で終わったのは翌年の春以降。岡山の現場入りしたのは11月だったと思います。
岡山では、長期ということと場所が山奥なので大人数宿泊する施設もないので 会社はじめてのアパートを数部屋借りてそこに寝泊まりするという方法がとられました。小さい部屋に何人もの人が仕事を終えて寝泊まりするのですが一般の人が生活してるところなので大人数には対応してません。お風呂もひとりずつだし 食事を自分たちで準備してとか 現場までの通勤は片道30km超で山奥なので信号とか交通量が少なかったのでスムーズに出来てましたが 時間は結構かかりました。
問題をひとつひとつ解決していくしかないわけですが 多すぎて無くなる事はありません。毎日6時過ぎには アパートを出なくてはいけないので5時過ぎに起きて 帰ってくるのは段々遅くなってその日に帰れるかどうかまでになって来ました。
このころ 九州の社長から自分の車が壊れてこんな車を貸してもらってましたが
のちにもらい受ける事になりました。
これは夜遅くのアパートに帰る途中の様子です。外灯もなく滅多にない自販機の前でなんか買って飲んでたけど
ヘルメットを取るのも忘れてました。真冬なのに防寒具を着るのも忘れてました。
山奥の現場なので 携帯電話も電波状況が悪くて屋外のちょっと高いところでないと繋がらないし 頻繁に切れるので連絡も大変でした。
仕事の内容は 今回は前の現場よりもっと悪く 初めて使う材料とか工法で計画されてました。設計した人は図面上で考えてるから簡単そうに作業手順を記してましたけど とんでもない問題や落とし穴に遭遇します。材料を移動させる時に使うフォークリフトにしても博物館にあるようなリフトを配給されてやってましたが 舗装されてないので埋まって動かなくなったり それを引っ張り出すために余計な時間と人員を取られます。
それと 大きな現場なので 今迄いたメンバーだけでは人員は全然たりないから 別の業者に請け負ってもらって作業は進められてます。全員の動向をひとりでは 管理できないからと 何度も上司に連絡して 応援を求めましたが ちょっと顔を出しては帰って行くというくり返しだけでした。工期が長いので全く作業者に休日を与えないわけにも行かないので 2週間に1回休みを取ってもらってましたけど 請け負った業者と交互に休みを取るので 自分は休みを取ることが 半年間の間、正月の3日間だけ休みでした。
当然、ここにも工期があるので 前回の悪夢が襲ってきます。
毎晩 朝から晩まで屋外で仕事して 夜になると他の業者やお客さんはいないので
昼間は絶対できない場所で喫煙とか川で用をたしたりしてます。
すでに壊れかけてます。
自分で壊れてきたなって思ったのもこの時 初めて気がつきました。現場にいる人はともかく 上司や九州にいる会社の人 すべて 誰も信じられないし助けてくれない。電話でよく「がんばってね」とか 言われるけど がんばれないし それがすごい重い言葉になってきていました。何回 涙を流したかわかりません。追い詰められました。
会社からかかってくる電話に出るのも怖くなっています。
ここの現場に来て 携帯がだめになり機種変を行った記憶があります。黒いのが壊れたやつ
でも、電話に出るのが面倒で嫌で仕方なかった感じです。
そんな中、前回の現場に工事の不具合が発覚して 呼びつけられ事情を聞かれます。これは自分がどうしても確認できない作業箇所でやらなかったから悪いのですが その中にあの現場に顔を出してた上司がいて 一緒に僕を責めてきました。責任転嫁というか悪いのは僕で自分は一切関係ないという感じでした。もう今の事で 壊れかけた自分には反論も出来なかったしそれに立ち向かう事も無理でした。このことでこのプラント会社の工事には 僕は出入り禁止とレッテルを貼られました。行ける現場が減ったということになります。
書けば もっとたくさんの問題があった現場でしたが ようやくここから解放されたのは春から初夏にかけてのことで まわりは今迄とは違うそんな雰囲気を察知してました。

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2018/05/16

1963年生まれ30代最悪環境の現場

平穏に工事現場で仕事をしてると 事務所より電話がありました。
突発の修理工事が出て 作業できる人員すべて集結して 山口県に行くようにと指示されます。僕はちょうど福岡にいたので山口までは3時間もあれば異動出来たんですけど 人を集めて連れて行かないといけません。
昼過ぎに連絡があって 現場に着いたのは夕方でした。遠方から異動してくる人はまだ到着してなかったのですが 到着次第現場にはいります。
来る途中、少し話を聞いていたので安全靴は耐熱の物を購入して持っていってました。
普通のとは 底が厚くて重い感じです。
塗装服として売られてた綿の服。軍手は3枚重ね
首回りや顔にはタオルで露出部分をなるべく作らないようにしました。
耐熱安全靴 高かったのに…
いざ、現場にいくとそこは 製鉄工場で修理するところは まだ火を止めてそんなに時間がたってなく 中は赤い状態です。試しにどのくらい我慢できるかやってみたけど せいぜい10分です。作業服もポリエステルのものより 木綿の塗装服を上から着て作業に望みました。深夜になり 遠方から異動してきた者も集まり人数は今迄にない数でしたから わからないですけど 2グループに分けて12時間交替という事ではじめました。
宿泊する旅館も 大人数でしたから6畳の部屋に10人くらい寝るという状態で 押し入れの中にも 寝てる者もいました。翌朝、夜勤を終えて日勤と交替したのですが 旅館に帰ってもずっと寝てないのでその日はぐっすり眠りました。夕方現場に行くと なんか日勤の人達は ほとんど口もきかないというか しゃべりたくない感じで弱ってます。
作業を始めると 昨日よりは少し中に入れる時間が15分程度我慢できるほどになってますけど 作業環境は最悪です。翌朝 また日勤と交替する時は 日勤の者達は少し回復してるように思えました。かわりに夜勤の者は弱ってます。帰り際に若い者が 僕の布団に寝ましたとかいうから なんでそんなんわかるのかと聞いたら 匂いでわかったというから驚きです。旅館に帰ってみると布団が乱れてるので ほんとに寝てたみたいです。

夕方、また現場に行きましたがそこからもう旅館には戻らず終わるまで作業をする事になりました。外注の人は旅館に帰って貰ったんですけど。
九州からも社長が様子を見に来ましたけど ほとんどの者は弱ってて あまり相手をしたくなさそうでした。
来たときに 安かったのかウーロン茶のペットボトル大量に持ってきてくれましたが ウーロン茶をガブガブ飲むと気分が悪くなる事を みんな 初めてしりました。
僕は天井クレーンとかフォークリフトの操作をしてたので 中の作業場にはいる事が人より少なかったので 比較的元気でしたので ウーロン茶で作業員が全滅しそうな気配がしてたから 外に水を買い出しに行ったりしてます。
休憩所の比較的涼しいところに回収して運びました。
夜中、外回りをしてると何人か あちこちに横になってる者がいたのに気付き 責任者に報告してフォークリフトで回収してまわりました。熱中症と睡眠不足、ウーロン茶で気分が悪かったんだと思いますが 翌朝にはみんな働いてました。

作業員の面倒を見ながら 手が空いてるときは僕も 中にはいって大工さんの手伝いもしてます。流し込みの耐火物は 中が高温なのですぐに固まるので 通常はなにかで押さえたり止めたりして型枠を固定しますが その時は手で持ってるだけですぐ固まるので 熱い中10分ほど手で固定したりしてます。
こんな 高温の中でじっとしてると ズボンがやけて熱くなりすぎるので 足を動かしていないといけません。
来たときに 買ってきた耐熱の安全靴は 深い溝があったのに 終わってから見てみるとツルツルに溶けてなくなってしまっていました。

旅館にもどらなくなって 3日目ようやくこの 突貫工事がおわり みんな 一斉に自販機の前で座り込んだのを覚えてます。僕も途中休憩時間にうとうとはしてましたが ほとんど寝ずに働いてます。工事色々やりましたが ここが一番最悪の現場環境でした。

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2018/05/15

1963年生まれ35歳までよく行く旅館の人達と再婚について

出張仕事の現場で 定期的に工事のあるところには 探すのも面倒なのもありますが 毎回同じビジネス旅館を利用してました。何度も利用するのは旅館の人の対応とか 食事やお風呂にそう不満がないからです。自分の気持ちだけで決められないのですが みんななにも文句を言ってる人はきいた事ないので 不満はそうなかったのでしょう。
そういえば 以前もらって乗っていたSUBARUの軽自動車が車検も来て 走行距離も伸びてきたし 街中を乗るには小さくて便利だったんですけど 近場の出張先(100km程度)に行く時なんか 高速道路で坂道を登るのが必死って感じだったので ちょうど手頃に帰そうな中古車でこれもまた軽自動車なんですが MITSUBISHIのミニカダンガンというターボエンジンの車に買い換えました。ミッションタイプだったのですが問題ありません(少し手間がかかるだけで)
その時、初めてターボエンジンの軽自動車に乗ったんですけど なんか加速とかがすごくて車の中で 自分の身体が止まったまま 置いていかれる感じ?そんな感覚でした。
なので、それまで運転してたようにはダメで少し慣れが必要だったです。
運転するにはちょっと 怖かったかもしれない軽自動車。燃費は悪かったです。
病院では首をひっぱられる装置をつけられ治療を数回しました。

ひと月程かかる出張工事にいったんですが 朝、旅館から現場に向かう途中 信号待ちしてるとうしろから 10tのダンプが追突してきました。ダンガンは前に車が止まってるのでブレーキを踏んでいたのですが それでもダンプに押され前にすすみ 前の車にも追突してはさまれた感じになりました。
僕の車と前の車は見た目は変わってないようでしたが 僕の車はうしろのハッチドアが開かなくなって修理工場へ出しました。
ダンプの運転手が携帯電話を操作してて そのままゆっくり前進し 追突されたというのが原因でした。怪我とかはなかったんですが とりあえず 病院に連れていかれ検査などをされましたけど どうも首が痛い感じで そう大きな痛みはなかったけど 病院では首にむち打ちのギブスのようなものを取り付けられます。
その日は、仕事出来ない事もなかったのですが 会社に連絡すると 旅館に帰って療養するように言われました。旅館に帰るとちょうど部屋の掃除とかしてて慌ただしかったのですが 旅館の主人やその奥さんが心配して部屋に食事を持ってきてくれたりホントに迷惑をかけました。全然 動けたんですけど甘えてしまいました。夕方になると 現場から仕事を終えた者たちも戻ってきて みんな 心配して様子を見に来ます。なぜか 風呂に入れないわけでもないのに 旅館の奥さんが主人の言いつけで身体を拭いてあげると 部屋にやってきて 相当断ったのですが背中だけ拭いてもらいました。この旅館には何度も来てるのですがほんとに 多大な迷惑をかけ お世話になってしまっています。のちにまたお世話になる事になるのですが。

それから 離婚してから2~3年過ぎた頃、岡山の旅館にもよく行ってました。ここはグループで泊まってたわけでなく ひとりで事務処理をするために数日 何回かにわけて行ってたんですが 老夫婦でやってる古い建物でしたけど きれいに掃除されてて 居心地の良いところでした。食事の時に他に誰もいないから 老夫婦と話しながら時を過ごす事が多かったのですが その時 離婚した事も話してしまったのでしょう。
おばちゃんも主人もとても親切でやさしい老夫婦でした。
数回、この旅館に泊めてもらいました。
ある日、おばちゃんが 「今度来るとき釣書を持ってきなさい」というから 何のことかしらなかったのですが 縁談の時に使う履歴書みたいなものだそうで ちょうど年相応の娘とお見合いをさせようとしたみたいです。そのときは、僕は断ったのですが たぶん思い出してみると 結婚はしてもいいとは思っていても こんなに家にほとんど居ない仕事をしてると相手の人にも悪いしなんて考えたと思います。それに子供にも会いにくくなるんじゃないかと 断ったと思います。
おそらく 当時は 結婚生活はこりごりなんて思ってたのかもしれません。
そのあと 他にも何度も縁談の話がありましたが その気にはならなかったようです。
あの時 お見合いしてうまくいってたら もしかしたら 今頃 旅館の主人をやってたかもしれないなんて考えてみると おそらく子供が出来て また離婚されたというほうが 確実かもしれません。ただ 僕が初婚だったならお見合いしてると思います。 

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2018/05/14

1963年生まれ90年代通信機器

出張の仕事をよくするようになって1993年頃から数年間 個人で携帯電話(アナログ)を所持するのは高価すぎて手が出なかったのですが ポケットベルならなんとか所持する事が出来てました。
離婚で離れた子供に なんかあったらすぐに連絡するように言ってあったから持つようになったのですが 仕事の時も事務所から呼び出されます。
システム手帳が流行りだしてて 当時はちゃんと手書きで連絡先など書いてました。
106のコレクトコールの技を覚えたが携帯の普及で使わなくなった。
初めの頃は うれしかったのですが 段々と面倒になって来ました。
それでも、会社が貸与して携帯電話を持たせる時もありますが 私用の電話は使えないし荷物になるだけでした。当時はアナログの携帯電話でバッテリーを複数持ってないと1日使えないし充電器も大きめでした。
ポケベルは数ヶ月 電池も持つし なかなか電波の届かないといった事も少なくてよかったのですが、電話を探す手間があった上に 公衆電話から電話すると通話料もかなり必要でした。10円玉しか使えないピンク電話しかない時は最悪です。
そうこうしてるうちに 携帯電話もデジタルになって来て 基本料金の安いPHSなども出てきます。
高校を卒業したばかりの後輩から PHSの話を聞き契約してみる事にしました。通話料金も10円+通話時間による金額で携帯電話よりかなり安い感じだったのですが いざ、契約してあちこち行くと圏外が多く携帯電話に電話をする機会が増えてきて とんでもない料金になったこともありました。まだ メールとかも普及してない時 通話のみで5万とか払ったり。圏外が多いのでポケベルと併用しないとダメみたいに。
まぁ よくよく考えると自分の用事の内容からしていらなかったなと 今になって思います。たいした会話内容でもないですし。他人にうまく使われたって感じです。
しかも、PHSは何万か出して買ったのに しばらくするとタダで配られてたし。

そして、現場の監督業が増えると自分では対処できない問題なんかもたくさん出てくるのでやはり 通信手段に携帯電話が必要かなと思い始めます。
はじめてのPHSと携帯電話はこれでした。共にサンヨー製
PHSはDDIポケットです。
世間では料金もデジタルになってかなり安くなってきてたし 0円携帯とか存在してたから だいぶ遅れてデジタルの携帯電話を契約しました。セルラー(現au)と契約して機種はサンヨー製のズボンのポケットには入れられない厚みのものでした。当然 バッテリー2個持ちでしたので荷物になります。
しかし、これ ひと月たった頃2~3時間しかバッテリーがもたないようになります。
そして、セルラーは東海地区から先はIDO通信とローミングしないといけないので 留守番電話サービスの録音された要件を聞くには 自分の携帯から聞く事はできず 公衆電話などで聞かないといけないなどと使い始めてわかった不満が出てきました。
携帯電話の契約をして すぐにPHSの契約の解除はしてなかったので ポケベルをあわせると3台持ちになりました。セルラーは違約金とかなかったと思うので解約しました。
いらなくなったこの電話機は 子供と会ったときに「おかあさんが貰ってきて」と言ったのでケースなど丸ごと持たせて帰しました。
しばらく、PHS(機種変更も数回やった)でがんばっていたのですが docomoの携帯電話の基本料金が9,000円になったときにSONYの横にクルクルまわすダイヤルのついたモノを契約しました。でも、まだ通話のみの機能しかありません。画面も液晶2色です。
そのあと同じようなものを1回機種変してiモードが出てきてからようやくメールが使えるようになりました。PHSはメールは使えてたんですけどね。
ISDNのモジュラージャックとつないで 通信をしますが
ハタから見るとあやしい人にしかみられないと思います。
当時、僕はパソコン通信にハマってて 電子手帳のザウルスとかNECのモバイルギアなどを所持してましたから、PHSと繋いでモバイルギアでアクセスしてました。ザウルスは実は自分で買ったものではなく 親会社の人が連絡先をザウルスに入力してくれたら買ってあげるとかいう事で買って貰ったものです。ポチポチとかなりの数の連絡先を入力してあげて 手に入れる事が出来ました。ザウルスはかなり高価なんですけど。
出張で旅館に行ったときに ISDNの公衆電話を見つけておいて 夜になるとザウルスとかモバイルギアをつないで通信をして会った事もない人とやりとりしてたんです。
パソコン通信は文字ベースですから 画像とか動画とかありません。
東京に出張に行ったときに、パソコン通信で知り合った人に一度実際にあった事があります。同じような趣味や考えを持ってる人ですから 当然話がすすみます。
ちなみにパソコン通信をはじめたきっかけはザウルスでしたけど 選べるのが富士通のニフティとNECのPC-VAN(現BIGLOBE)で 支払のしやすさからPC-VANにしましたがニフティのほうが断然大きいとあとになってしりました。

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2018/05/11

1963年生まれ32歳から、広島県民になる

日本中にあちこち 仕事があって僕も 色々なところに出張に行き作業員としてやってました。遠くは北海道まで行った事もあります。

現場は、メンテナンスの場合 決まった時期に同じところであるので 同じところに数回行く事もあります。その場合 前来た人をよこしてくれとか指名される事もあるのですが 僕も指名で(仕事が優秀とかからじゃなく慣れてるという理由)呼ばれてました。
そして、同じ会社からいつも指名で呼ばれるようになり 現場の仕事が終わったあと 報告書や 工事写真の整理などで1週間ほど その会社に行く様になります。

その頻度が段々多くなってきて 工事写真も工事の規模が大きくなるとものすごい枚数になるので 1週間では足りない様になったりします。
当時は、L版の写真をDPEでプリントしてもらってやってましたから工事写真帳が2部3部いるとか言われたら 写真は1,000枚以上になったりもします。
その間、やはりビジネス旅館に泊まってるんですが 宿泊費も1週間もなるとアパートを借りれるくらいの金額になってしまいます。会社同士話し合いをしたようで 僕を出向させて欲しいという話が出てきました。
僕はマンションを買ったばかりで他県に移り住むということに抵抗があったのですが 色々と条件をつけられ仕方ないかなと思い、決心しました。
自分がまた大きく環境が変わる時
住むところも仕事も責任感も

ある日、社長に呼ばれ その話をサウナに連れて行かれたときに説得させられます。
当初は、自分の手許に置いて仕事を助けてくれみたいな話で会社に入ったけど 離婚とかもあって 現場に行く様になりそんな事よりも 利益だったのでしょう。
マンションは、九州の会社で面倒を見てくれるということなのでそうしたんですが あとになって後悔します。
とにかく、仕事も詰まってるので 必要な荷物や生活できるものをひとりでトラックに積み込み広島のほうへ 引っ越しました。引っ越し先は2DKのアパートでしたが結構新しく家賃もそう高くはなかったです。
それからは、そのアパートを拠点としてあちこち出張現場にいったりしてます。
そこに行ってからは 作業員には変わりありませんが 主な仕事は現場をみる監督員になってしまいます。現場の作業はほとんどしなくて 写真撮ったりなんか問題があれば 報告して対処する世話係のようなものです。作業服やヘルメットも自分の会社の物を使う事が出来なくなりました。髪も今迄長めでしたが この時メチャクチャ短く切って気を引き締めてます。

見知らぬ土地に行って色々と不便な事もありましたが 案外慣れてしまいます。
そして 時間をみては 今度はパソコンの勉強をはじめました。ノートパソコンはかなり高額で買えなかったので デスクトップ一体型のWindows3.5のCOMPAQ プレサリオというのを買いました。のちにWindows95が発売されるのですが プレサリオには無償のアップグレード券がついてました。インターネットは、まだ電話回線でつないで モデムを使ってやるので 設定も結構大変だったし 表示速度もなかなか表示されなくてたまに 繋いでる感じです。
長時間は電話代がかかるので 気にしながらやらないといけなかったです。
Windows3.5である程度使えるようになってから95にアップグレードし
インターネットにも挑戦してました。

パソコンを買って やりたかったのはまずは 操作を覚える事と絵を描いたりしたかったのですが絵を描くのは なかなか難しくて出来なかったと思います。

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2018/05/09

1963年生まれ30代当時出張現場仕事以外の時


ここにきて、このブログをみた人からの質問がありましたので その内容をエピソードとして描いてみました。
質問というより、疑問? 「出張の時って仕事以外どんなふうにしてるのか」ということです。
ほとんどの場合、ビジネス旅館を利用してました。2~3日ならビジネスホテルも有りですが 食事がついてないとかで割高になる事と、落ち着けない感じでした。
急遽、カプセルホテルとかも泊まったことありますが 何日間も無理でしょう。

仕事が始まる前に、その現場の近くの宿を探すのですが 当時は電話帳とか104とかで探してました。元の会社は、事務員(僕も含まれる)が探して 手配してましたが 出向先の会社は出張費が1日あたり決められていて その金額くらいで自分で探します。余っても返さなくていいし、足りなければ手出しになります。足りなかった事はないのですが余ることはありました。5,000円くらいで2食付が理想でした。何度も行く現場は同じ旅館を利用することがほとんどです。

部屋は色々ありましたが、2~3人部屋が多かったです。監督の時は個室が多くなりましたが、誰か大体遊びに来てるので寝るときだけひとりって感じでした。
必ず持っていってた物。出張先でも調達できるのですがあと 作業着と下着など着替え。
作業着の洗濯は汚れがひどいのでしょっちゅうやりました。夏場は汗とか大変です。
朝、起きてからトイレや洗面所は混雑してますが、年配の人は結構 早起きの人ばかりなので全員一斉にって事は避けられてました。そして 7時くらいに食堂にいけば 朝食の準備が出来てるので みんなで食べて現場に出かけます。時間を書きましたが 8時始業の現場の場合です。昼食は、現場で弁当を頼んで持ってきてもらったり 買いに行ったりと様々でしたが 大体全員同じです。僕は弁当を買いに行った回数は人一倍多いと思います。
夕方、残業がなければ ほとんど17時に現場を出て 帰りにコンビニなどに寄ったりして酒やつまみを買ったりしてほぼ 全員買い物をしてます。
旅館に帰り着くと、汚れてるので 風呂にはいりますが 旅館の設備にもよりますが 大体時間が決められていて全員一斉に入れる浴場もありますが 利用した中ではせいぜい5~6人という浴場が多かったです。ひとりで行くことはほとんどなく 誘い合って行ってました。石鹸は大体 旅館に置いてあるのですが シャンプーとかはないところが多かったので 僕は、シャンプーと歯磨きセット 電気シェーバーは必ず出張には持っていってました。シャンプーと歯磨きセットは 出張専用にしてましたが トラベル用の小さいもので最初はいいかなと思ってたけど すぐなくなるので普通のサイズにしてます。シャンプーはバックの中でこぼれないような蓋がついてるものを選んでました。
夕食もみんな 一斉にとりますが ほぼ 家で食べれる料理の豪華版でしたが、待遇の悪い旅館にあたるとみんなから 文句が出てきたりします。一度僕が探した旅館で夕食がたこ焼きだけだったと みんなに散々言われました。視察に行ったときはまともだったんですけど。それから 日曜日は旅館の食事がおやすみってとこも多くて その時はみんなで外食に行ったりしてました。大人数の時は夕食代としていくらか 配って各々食べてもらっていましたけど こうゆう事も僕の仕事だったんです。
どこに行っても みんなこのような感じで寝るまで過ごしてる人が多かったです。
布団のシーツは 相当長期にならないと交換してくれません。ずっとそのままでした。
夕食がおわれば みんなテレビをみたり部屋でくつろいでましたが マンガを読んだり何人か集まって酒盛りしたり自由です。騒ぎすぎると責任者が旅館の人にこっぴどく怒られますが 僕も何度怒られたか覚えてません。中には粗相した人も居ましたし 具合の悪くなる人も居ますのでその面倒もみないといけない立場でした。
あと、長期の出張になると洗濯物がたまってきます。作業着はかさばるので数多く持っていけませんが まぁシャツやパンツなら1週間分くらいは持って行けます。それでも ほとんどの場合洗濯をしないといけないので 旅館には洗濯機を置いてあるところが多かったから(無料と有料がある)粉末の洗剤(小分け出来てるので)を 用意してました。
奥さんがいる人は、ラップに小分けして持たさられてるのを見た事があって なるほどなと感心しただけで 僕はコインランドリー用の小分けされたものを買ってました。
洗濯機は混雑するので、残したままにはしたくないから 洗濯機にはり付いてましたけどよく見る光景が、自分が着ていたシャツまでも一緒に洗って裸で待ってるという場面です。次の洗濯で洗えば済むのに どうしてこんなことをしていたのか…
干すのは 専用の干し場がある旅館もあれば 自分の部屋に干すしかない旅館もあります。乾燥機も備えてるところがありましたが たいがい有料でしかも メチャクチャ縮むので僕はあまり使った事がなかったです。旅館も顔見知りになると僕の場合洗濯は自分でするんですが 帰ったらたたんでくれてるとこもありました。
あとは 寝て朝起きてのくり返し。長期になると現場が休みの時もありましたが その時はみんなは パチンコ行ったりどこかに遊び行ったり散髪に行ったり各々過ごしてます。
理髪店にしか行きませんが、青年の時に2回程 美容院に行った事があります。
出張先でいきなり行くとどんな店なのかわからないので 時には気に入らない髪型になる事もありましたけど
よほどの事がないかぎり無頓着なので気にしません。ちなみに 来ちゃったん?は広島県で言われました。
まぁ じっとしてる事も多かったですね。 ちなみに散髪は僕は自宅の近くでやった事がなかったです。出張先でやってました。あまり髪型とかは無頓着なので目に髪が入らなかったらどうでもよかったです。
現場が終わって帰る時は、大体来たときよりも荷物が多くなって帰って行きます。

2018/05/08

1963年生まれ今迄飼ってた動物たち

ペットの動物たち

子供の頃、全然記憶にもないのですが 父がシェパードを飼ってたそうですが(母親に聞いた話)物心ついてから記憶に残る動物は前出のスピッツのメス犬 メリーです。
そのあと小学生の頃に、買ってもらった文鳥とか 自分で買ったジュウシマツやセキセイインコなど小鳥を飼ってました。文鳥は逃亡と病死でジュウシマツは繁殖してセキセイインコと 小鳥屋さんが交換してくれました。
高校生になる頃まで 生きていたんですが手乗りじゃないセキセイインコを長い事飼ってました。途中、弟がお祭りで買ってきたひよことかいましたが 弟の所有物です。
ハムスターも高校生の時に買って育ててましたが、学校から帰宅すると母親が「モンスターが逃げておらんごとなった」と聞かされて それ以降 動物を飼う事はあまりないです。ピンクレディーのモンスターという曲が 流行ったあとだったので 母はハムスターの事をモンスターと思っていたようです。

結婚する前に 子猫をもらって母親が育ててましたが あまり好きじゃないらしく 人にあげたと聞いてます。

結婚してから子供に 保育園のバザーがあるというのでお小遣い1,000円あげて好きなもの買っていいと言った事があったんですが、ひとりで買い物してきたんですが 1,000円全部使い、バスケットカゴを持って帰ってきました。
中には、子猫2匹入ってて うぁ、 どうしようと思いましたが、面倒をみるのは嫁です。僕は、出張ばかりで家にあまりいないので滅多に面倒をみません。子猫は雄雌のシャム猫デザインでしたが、大きくなるにつれてシャム猫デザインから そこら辺にいるネコと変わりないシマシマ模様が現れてきます。雌のほうはじつは すぐに外を出歩いて たぶん犬にやられ死んでしまったそうです。
なので、オス猫がしばらくうちにいましたが、大人になって尿道が詰まったとか聞いたんですが病院にかかってたようです。あとはどうなったのかはしりませんが この頃、熱帯魚とかも飼ってました。離婚して家を出たのであとのことは知りません。

ひとりになって北九州から広島に住んでた頃、24時間営業のスーパーがあって夜中に買い物に行ったとき、たまたま売れ残った小さな透明のカップに入れられた500円玉くらいの甲羅のカメをみつけました。緑じゃなくクサガメです。せまい中でかわいそうだなという気持ちと 自分もこういうの好きだし買ってかえりました。そんなに長生きしないと思ってたんですが、10年以上飼うことになります。
出張の時はどうするの?と 思われると思いますが、最初は会社の事務員さんに養育費を払って預けてましたけど しょっちゅう出張となると そうも行きませんので 連れて出張に行ってました。まず 世話になる旅館にカメを連れて行ってもいいかと 聞いてからなんですけど、ちいさな水槽だけなので 快く迎えてくれました。
ズボンのポケットの中にもいれる事が出来てたんですが 数年すると大きくて重いので無理です。でもその頃は 出張仕事もやってないので ホームセンターで丈夫そうなベビーバスを買ってそこで飼育してました。
一番一緒に時を過ごした生き物になりました。
魚のさしみが大好物でした。

この頃、同時に子供の頃 欲しかったシマリスを飼い始めます。シマリスも6年近く飼ってましたけど、両者、冬には冬眠にはいるのでしばらく飼育作業がいらないというさみしい結果のペットでした。シマリスは冬眠にはいってから 出てくると 超凶暴になり餌をあげようとゲージに手を入れただけで襲いかかり かまれたり爪でやられます。なので 餌をあげるときは 溶接の時に使ってた革手をつけるようになりました。
真剣にこの頃、フェレットを飼おうと考えてたんですが
シマリスが食われるとか思って諦めてます。小動物は見てて飽きないです。かわいいよなぁ

滅多に鳴かないのでしょうが 一度だけ シマリスが鳴いてる声を聞いたことありますけど 小型犬のような感じです。あと、イメージ的に シマリスがクルミを割って食べるような勝手な事を思ってましたけど、シマリスにはクルミは大きすぎて割ることも持つことも出来ません。ある日突然、ゲージの底で狂ったように回ってましたが 明らかに今迄とちがう初めて見る動きで 仕事に行く前に「もしかしたら 帰ってきたら死んでるかも」と 思い仕事に出かけたんですが やはり すでに固くなってました。調べてみると大体寿命が5~6年だとわかり そのくらい生きてくれてたんで自分としてはよかったです。ゲージとか飼育道具があるのでまた 飼えるんですが その気にはなれなかったです。

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2018/05/07

1963年生まれ1994年の末頃からの出来事。ギックリ腰


1994年の末頃、千葉県の長期出張で応援要員で行きました。
期間は春までだったと思います。途中 年末年始があったので 帰りますが 帰ったところで誰も居ないマンションに帰るだけです。
それでも、宿費が発生するので帰らなければなりません。
年明け、正月休みも終わりまた 千葉へ向かいました。この時もたしかフェリーで神戸まで行って あとは高速道路を通って数時間かけて行ってます。
千葉について1週間ほどたったとき、宿の大浴場にいたときですが なんか フラフラっと感じたんですが、熱があるのかなぁと思ってました。
でも、朝 起きてみると みんながテレビを見て騒いでたので 昨日のフラフラって感じの意味がわかりました。地震だったんです。
阪神大震災があったんです。数日前千葉に行くときに通った高速道路も倒れてる映像を見ました。

仕事は差し支えないので平常どおりでしたが 高速や新幹線は機能してなかったはずです。
地震があってから数日後、僕は大工さんとして 応援に行ってましたが グループの責任者でもあったので れんが積みをしてるところが忙しければ手伝います。
そのときに れんがを手渡しして れんがやさんが 積んで行くのに れんがを取ってあげてました。
持ち上げた瞬間 身体に電気がはしったような感覚を覚えます。ピキッて音も聞こえた様な。そうです 腰をやってしまいました。
なんか 汗がすーっと落ちたみたいです。
はじめて 立ち上がることが出来ない痛みでした。ほかの作業してる人が驚いて「監督さん大丈夫ですか?ギックリ腰じゃないですか」といわれ グループの人に抱えられて 宿に帰ります。
そんなに重いものではなかったのですが 姿勢が悪かったということです。
和式のトイレにはほんと、困りました。
2~3日安静にしてれば 大丈夫だろうと思ってましたが 歩くのがやっとで 風呂に入ると温まるのか痛みは和らぎましたが 腰を下ろすまでが大変で 同じようにトイレが和式だったので大変でした。
それに 靴下もはけないし 靴紐も結べません。
昼間は、グループの人も仕事に行って誰もいないけど 帰ってきたら色々と面倒みてくれましたが 足手まといそのものです。仕事もしてないのに宿代もかさみます。
それが 気にかかって会社に相談し 自宅に帰るとなったのですが 震災の為 帰るには飛行機でしか帰れませんでした。千葉の会社は宿代のこともあったし 役にたたない人間はいらないので
飛行機で帰る事に承諾しました。(飛行機を使って移動するなんてほぼなかったことです(海外や北海道とかならあったかもしれませんが))

飛行機で羽田から九州に帰り、しばらく療養することになりました。
また、前にも行った裸の針治療や 整体、接骨院などにかかりました。姉の友人の紹介で 久留米のほうにある接骨院がとてもいいと聞いてそこにはじめて行って ようやく仕事もできるように治りました。
千葉の仕事は終わりがけだったので僕はもう 行かなくてよかったと思いますが、記憶の中ではまた行った気がします。
千葉の現場は、北九州(僕のグループ)からと 東北、奄美大島のグループが応援で集まってましたが 朝礼でよく 困ったことはないかと聞かれてたときに
僕は、ほんとに 方言で困ってましたから そう言ったんですけど、東北の人たちから「あんたの言葉のほうがわからんわ」などと やりとりした覚えがあります。
監督としては、どこに行ってもいつも年下でしたからそういう風に交わされてました。
千葉県は市原市というところに 宿があったので 町はそう賑やかではなかったけど だいたいなんでも揃ってるところで 遊ぶところも結構ありました。

千葉県に居るとき、はじめて低周波治療器を買ってしばらく使ってみたんですが、これがまた気持ちよくてよく使ってました。初めて買ったのはサロンパスの「ぐいもみ」という製品で パットの部分がひとつだけでコントローラー部分がコードにつけて使うことも 直につけてつかう事もできるもので コードが邪魔にならないという利点がありましたけど、数年間 毎日使うものではないのでパッドがそのうちにくっつかなくなって 新しい交換用のパッドを探しましたが 見つからなくて面倒なので どこにでも売ってるオムロンの低周波治療器に買い換えました。
あるうわさを聞き、実践してみましたが 偶然でしょうが成功
そのうわさとは、これをしてパチンコをすると当たるということです。
この治療器の購入は先だったんですが、実質 タダになりました。
まぁ 何年間も経ってますけど。

ちなみにこの年に 阪神の地震とオウム真理教の地下鉄サリン事件もありました。

2018/05/05

牛切り出し肉でカレーを作ってみた。

連休の最中、近くのスーパーに食料品の買い出しに行ってきました。
特に大量に買い込む事もないのですが、精肉売場に安い牛肉「肉切り出し博多和牛って書いてますね」があったので買ってみました。
なんとなく 固いイメージがあるので 煮込んでカレーを作ってみたいと思います。牛スジとは違うのかな?
野菜は、家にあるだろうとキュウリしか買わなかったのですが、家に帰っていざ作ろうと思ったら
ジャガイモとタマネギ、ニンジンはありました。しかし、ニンジンはもう使えそうにないくらい老朽化してましたので
今回は ジャガイモとタマネギだけで作ることにしました。車庫に車を入れてなかったら、買いに行くんですけど シャッターを開けるのが面倒なのでニンジンはパス。
ジャガイモとタマネギしか家になかった。

ジャガイモはふたつとタマネギ一個 あとは買った肉。カレールーは前に作った時ののこり半分4皿分と思います。
まずは、肉を鍋いれ、水につかるようにいれて沸騰させます。
そのあいだに 野菜を刻んで準備完了。
沸騰したら、アクがものすごい量 出てきましたので キッチンペーパーを入れて菜箸をつかい取ります。今迄、あく取りシートっていうものを使ってましたが、キッチンペーパーでよく取れます。
キッチンペーパーに絡み取るあく取りはじめてやったけど楽です。
おたまとかで ちまちま取るより早く済みます。

次に、肉を茹でたお湯を捨て 水道水を流し入れ 数回水がきれいになるまで繰り返します。
肉は、一口大に切ります。
鍋は いったん洗い汚れを落としまします。鍋に 肉と野菜をいれ ルーが半分しかないので500ccの水を入れ圧力鍋に入れ 加熱します。ピンが上がってきてら弱火にして15分程度加圧しました。
いつも ガスレンジでやるんですけど この前 火を消し忘れた事があるので 今回はIH調理器に乗っけてタイマーをセットしました。
ジャガイモは水につけてましたので、遠心力で水きりできる道具をつかいました。
オレンジ色のところを数回まわすだけで水切りが出来ます。

あとは ピンが下がるまで待って、ルーを溶かし込んだら完成です。コンソメの顆粒をちょっとだけ加えました。テレビを見ていたので、IH調理器のとろ火ってモードにしてしばらく煮込みました。
完成です。たぶん 明日も食べないと残りそうです。肉はとろとろになっておいしくいただけました。
加熱を始めて圧力鍋の赤いピンが上がってきたら弱火にして時間をはかります。
圧力鍋は便利なんですけど蓋を洗うのが面倒です。加熱してる間にもう使い終わった調理器具を洗い片付けます。
カレールーを溶かし込む前の状態でも肉とやさいのスープが出来ててそのままでもいい味がしそうです。
完成!やっぱりニンジン買ってくればよかった。

2018/05/01

1963年生まれ30代仕事に没頭する


30歳から37歳になるまで出張メインの築炉関係の仕事をしています。
事務所の勤務が主だったはずなのですが、会社の事情であちこち 現場に行く様になりました。
事務所では、これからはワープロくらい使えないとダメだと思い 取説をまんべんなく読んで 勉強をしました。
全機能が使えるようになるまで勉強しました。
自分専用に1台 買いました。こういうなんでも新しいものは好きなので 取り組みます。
そういえば、MSXパソコンというのを 以前に持ってたのがはじめての パソコンになります。

ワープロもシャープの「書院」とかNECの「文豪」など メジャーなものを選ばずにカシオの「カシオワード」を選びました。
理由は、電子手帳とつなげられるそれだけだったんだと思います。専用の接続ケーブルとか今、考えると結構高価だったと思います。
とりあえず、文字を入力とか書類を作ったりはできるようになったのでよく 使ってました。

ほんとは、なにかに没頭する事が欲しかったのかと思います。
ゴルフの練習したり、魚釣りをやってみたりしましたが
離婚してひとりになったから 仕事をしてるときや、マンションに同居者のM君がいるときはそうでもなかったんですけど ひとりになって仕事も休みのとき マンションでひとりでいると 胸に大きな穴が空いた感は 痛感してました。
なにやっても 楽しいと思える事が見つからなくてひとりになると
ただボーッとしてるだけつまらない日々を過ごしました。
本来なら、休みの日には子供と遊んだり 家族でどこか行ってたりしてたから
決して、自分の口から「寂しい」とか言う人ではないので他人に悟られないようにしてたと思います。

そして、M君とふたり責任者として山口県のガス会社の補修工事に行ったときに宿で M君から最初は相談みたいに言ってたけど仕事が嫌だとか相当愚痴とか言い出したので「嫌なら帰れ」と言ってしまい M君は現場放棄して帰ってしまいました。
次の日には、電話をもらったけど 社長に話して会社を辞める事にしたそうです。
若い人にとって 長期の出張仕事は 人にもよるけど結局こうなってしまいます。
僕は現場を放棄するわけにはいかないので終わるまで帰れなかったけど、その間にM君から 仕事をやめて心が落ち着いたのか 僕のところの宿に電話をかけてきてリラックス出来てる事を話してました。そして、実家に帰るという事も。
なので、僕がマンションに帰ったときはもうすでに空き部屋になってて余計にさみしさがこみ上げてきます。

それでも弱音をはくわけには いかず仕事をこなしてましたが、新規の現場で定期的にある新しい会社の取引先のところに 専務の補佐としてひと月いきました。途中、山口のガス会社から 追加工事で僕が指名されて抜けないといけなかった事もありましたが、新しい取引会社の監督さんから 工事が終わったあとの 報告書や写真整理など ワープロを使いこなしてたので 工事が終わってもその会社に出張として 数日報告書作りとして呼ばれるようになりました。年に数回 その会社の仕事が決まっていたので そのたびに指名され 専用要員のようになります。

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