2018/04/27

1963年生まれ30歳マンションを買う


離婚したあと、色々と細かいものを含めて名義変更やら 面倒だったんですが、僕は他人の家で居候として過ごしてました。
社長の家なんですけど、寝るのは 社長の息子 中学生の離れの部屋で寝させてもらってました。できる限り 出張仕事に行って仕事先の宿に泊まるほうが気を使わなくてよかったんですけど、中学生の子はとてもなついてて 嫌な顔しないんですけどやはり 友達とか呼んだりできないじゃないかなぁとか思ってました。できる限り遊んであげてました。
遊ばれてたかもしれないんですけど。

しかし、仕事は事務所の仕事のほうが圧倒的に多く いつまでもそこに居るわけにはいかないなと思い始めて 自分の住むところを探します。田舎なのでアパートとかは滅多にないし、市営住宅などはたくさんありますが 単身の入居はむずかしくなかなか 見つかりません。家賃を結構払えば あるにはあったんですが 金額的に中古マンションを買ったほうが毎月の出費が少なくなるということを 不動産屋に言われます。
ちょうど、社長の家の近くに中古マンションがあって 広さもひとりでは充分すぎるところを紹介されました。一刻も早く 社長の家から出なければと思ってたので 気持ちもあせってたこともあり 社長の奥さんのすすめもあり 購入する事にしました。大きな買い物です。でも、僕の闇世界への入口だったことに気付きません。
事務所の仕事が多いので、出張がほとんどないというのが前提でしたけど。
パンを売る車を持ってたんですが、社長の弟弟子(会社では専務)さんから、いらないからやる とか言われて、軽自動車をもらいます。パンを売ってた車は車検も切れかかりの次期だったのだと、エアコンがついてないし もう必要なかったから廃車しました。
通勤に使う車でしたけど、出張がふえれば車は なんでもよくなってきます。
間取りはこんな感じだったと思います。4階建てなのでエレベーターはなく自分の部屋の階までひとりで何往復もして荷物を運びました。たいしてないんですけどね。
それから、軽自動車をもらって足がわりにしてました。
購入してから しばらくはひとりで暮らしていましたが、部屋が余ってます。同じ会社のM君が、大学生の時に入居してた学生用のアパートを出たいと行ってたので、冗談交じりでうちの部屋貸してやろうか?? って話したんです。
そしたら、本気でその話に乗っかってきました。もともと 出張とかで数週間同じ宿の部屋で過ごしてた事もあるので どんな人柄とかお互い知ってましたから抵抗なく 今でいうルームシェアということになったんです。出費も半減しますしね。ふたり同時に僕のマンションで一緒に居たという日は、ほんの数日だけでしたけど そんなときは一緒に夕食を作って食べたり ゲームしたりしてました。
でも、段々と出張の仕事が多くなってきて 事務所勤務前提とか言われてたけどふたり共一緒に現場に行かされるか、片方どちらかがいくようになって来ます。
なので、どちらかひとりがマンションにいるって事もありました。

数日、M君が出張に行ってる時、夜中に電話がかかる様になりました。M君と僕は別々の固定電話を引いてましたから 僕のほうにです。
元嫁からです。最初のうちは 話も聞いていましたが 内容がどうも 腰が悪くて仕事に行ってても辛いみたいな事だったと思います。娘の養育費はちゃんと払ってました。
元嫁が深夜に電話をかけてくる様になり 心が揺らいだかもしれません。
でも、もう元には戻らないと振り切ります。
でも、「あぁ こいつ寂しいんだ」って思わされる事を言い出してきたので 娘に会える時は連れてきてもらってたけど 顔を合わさないようにしてましたし もう電話をしてこないで欲しいと伝えました。忘れかけていたんですが「出て行って欲しいんですけど…」あの言葉が蘇ります。それから 真夜中に電話がなることはなくなりました。

2018/04/26

1963年生まれ30歳別れ


離婚を決意した瞬間、娘の事だけ考えました。
しかし、育てるには 女の子でまだ 小学生です。そして 仕事が出張ばかりだったのでいつもひとりになる。
自分の親に頼るわけにもいかない。社長にも色々相談して 子供がパパと暮らすといえば…その時のことも決めてました。

女の子というのが 僕のほうにきたら あまりにもかわいそうだとも 思いました。洋服をかわいくしてあげれないし髪を結んだりもしてあげれない。まして、なにか行事があったりしてもうまくやってあげれない。そして第二成長期にはいったら女の子なので対処できそうにない。
そんな事もよぎりました。
ここは 養育費を払って 母親と一緒に居るのが娘にとっては いいとは思いはじめました。
しかし、娘は小学3年生で パパを思い 「パパと一緒に行きたいけど、おかあさんがかわいそうだからおかあさんと居る」そう言ってくれました。
たぶん、精一杯、気を使って言ってくれたのだと思います。娘には謝るしか出来ませんでした。 

荷物を取りに行ったとき、必要なものは洋服や着替えくらいだったんですけど 他のものは子供も使うので、全部置いていくといいましたが、大事にしてたステレオなんかは邪魔になるという事なので もたされます。
以前は 古い洋服ダンスだったのですが いつのまにか大きなクローゼット風のタンスに買い換えてあって 開けてみるとハンガーの9割がたは 嫁のもので1割程度に子供と自分の服が掛かってました。
ある程度、荷物をまとめて箱に入れられてましたので積込は早かったです。
娘が自分が使ってた14インチのテレビをパパにあげると。
いよいよ、荷物も積込がおわり 娘がおかあさんの見えないところで涙をいっぱいにして飛びついてきました。
この絵描きおわって、どれだけかわいそうな事をしたのか想いがよぎって
涙が出ました。
抱きしめて、かける言葉もゴメンとしか言えなかったけど もう涙が止まらなかったです。
離婚する事は 僕はなにも話してないけど 母親がいいように言って聞かせたんだと思います。
どんなふうにおとうさんのことを話したのかはわかりませんが、自分が不利になることは言ってないでしょう。

そこに嫁の姉が現れて、18になるまで養育費はちゃんと送ってやってと言いに来ましたけど、娘との別れがあまりにも大きな出来事でした。
この姉も、うちの団地の上の階に住んでて曲者でしたし 嫁もよく愚痴ってましたがやはり、姉妹なのでこういうときはタッグを組むでしょう。
旦那さんやおとうさんが亡くなったとき、その他諸々 やってもらったことは忘れたのかって言いたかったくらいです。

家を出て、社長の家で荷物の整理をしていると嫁が詰めた段ボールの箱をあけてみると あれだけあった写真の一部 僕だけが写ってる写真と娘と写ってる写真 そして切り離された僕の写真がはいってました。 
 当時、考えてた事を思い出すと、養育費は毎月子供のために送るが あの女が自分のために使う事は許せない→でも仕方ない。
娘がもし、パパに着いてきたら育てるのはどうしようか→なんとかがんばるしかない
ひとりになったからといって、奥さんがいないとダメねなんて他人に言われたくない。
(片付けや身なりや 若さなど)
僕が ひとりで暮らしてたアパートに突然 来て急に結婚する事になり10年ほど だいたいすべての事を言いなりなって過ごしてきて、最後はどこにも行くとこがないのをわかってて言った「出て行って欲しい」の言葉。
別れた事を後悔させてやりたい。そんなことを考えてました。
娘には 大変申し訳ない事になったと 反省しましたが あとには戻れません。

その二日後、僕は山陽地方の出張で仕事に行ってました。社長の家に寝泊まりするのもできるだけ少なくしたかったので希望して出張に行かせてもらったわけです。
当時、ポケベルを持ってましたのでポケベルに 家だったところから連絡がありました。
実はこれは2代目のポケベルでその前は数字だけのポケベル持ってましたけど、
県外に行くと使えなかったのでNEXTとかいう最新のものに変えたばかりでした。
娘からだと思ってすぐに 電話をかけたら あの女の友達(あったことある人)が出て、「考え直して戻ってきてあげて」と言われます。その友達は頼まれてポケベルを鳴らしたようでしたが、もう僕の心は代わりません。
出張から帰ると、うちの実家や社長にも相談に来てたらしいけど もう誰も離婚を止める人は居なかったです。居たとしたら事情をしらない人でしょう。

その後、娘にはどうしても会いたくて 電話で会話した事と 娘の誕生日にカラオケに一緒に行った事が1回だけあります。
一方的に僕のほうからみた事しかわからないし はっきり理由も聞いてないから僕におおいに非があるのかもしれません。ただ 振り返ってみると 望み通りにやってきたし、まぁ不満と推測される事は回数は無理でしたが 
あの時 無理に戻ってたとしてもいつかは この結果になっただろうと推測されます。
パパとおかあさん ふたりが円満にしてないと娘も小さいながらに察知し 結局は悲しい思いをさせたとなると胸が痛いけど 
僕は娘に申し訳ない気持ちと一緒にこの先もずっと時が止まったまま 娘に恋い焦がれていくでしょう。

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2018/04/25

1963年生まれ30歳の年大きな出来事がありましたですその4

今回はスマホ画面に合わせて マンガ風に描いてみました。
これが毎日続くとさすがに滅入ってしまいました。
子供でも起きてれば違ったんでしょうが。

こんな日々が続いて毎日家に帰るのも23時、24時でしたが 帰ると家で子供は既に寝てますし 部屋の灯りも灯ってません。嫁も寝てるのだと思いますが
灯りをつけて、テーブルをみると 食事の用意がしてあります。ちょっと腰を下ろしてめちゃくちゃ小さな音で ステレオのスイッチを入れてラジオを聴いたりしてたんですが、嫁が無言で出てきて、ごはんをよそったり、冷めたおかずなどのあたためをしてくれます。その間、一切 話もしませんでした。ただいまって言っても無言です。食事をはじめると嫁は布団にもどっていきます。僕は食事が終わったら風呂にはいって それから食器なんかを洗おうとそのまま風呂に行ってたんですが、風呂を出ると片付けが終わってます。
また、嫁が起き出して片付けたんでしょう。

そして少しゆっくりしてから 寝るんですが、6畳の部屋に布団をふたつ敷いて 嫁と別々に寝てました。どちらかに 子供が一緒に寝るという感じでそれまで3人でずっと同じ部屋で寝てました。声をかけても寝てるふりしてたかもしれないけど返事はなく、朝も早く行かなければならないので ひとりで起きて出かけてました。朝はさすがに嫁は起きては来ません。その状況が次の日も次の日も続き、だんだん僕もただいまさえ言わなくなりました。そして1週間 もう息が詰まりそうで 家に帰るのも億劫でした。帰るしかないので家に帰ると起きて待ってました。「出て行って欲しいんですけど」を 言うために。
「出て行って欲しいんですけど」=「離婚して欲しい」と理解した僕は「わかった。」その日は遅いし、理由も聞かずその日はそれだけの会話をして同じ部屋で寝ましたが、朝は会ってないです。朝はいつも早いので嫁も子供もまだ寝てます。

会社に行って、社長にそのことを話し しばらく 社長の家でやっかいになることになりました。そして 出張に行ってる間に 嫁は社長夫婦のとこに来て相談した事が 仕事のことだけじゃなく他にも 言ってた事がわかりました。仕事の相談は前にも書いたんですが、他の事とは、ママさんバレーのチームメイトに話してた性生活の事です。自分も本人から言われたことはあったんですが、とてもそれを叶えることは僕には無理でした。
嫁の友達とかは、毎日のようにやってるらしく 相応にということですが、毎日なんて無理です。そもそも出張で家を空ける事が多い上に、事務所勤務でも帰りは遅く朝も早いし 当の本人も寝てるという状態で 僕自身もそんな体力もありません。
働かず、家にお金も入れない 女が出来たとかそういう理由で離婚じゃないのはたしかなので、社長夫妻は理由はそれだと 判断しました。全くその行為が出来てないならそうだと思ったんですが、他に理由があるとしたら 若い男の子が好きだったんで離婚すれば フリーになるんで とか思うけど もう僕には嫁の事が心にありませんでした。

行くところもないのをわかってて、平静で出て行って欲しいと言った女。あの時、仕事がああいう仕事してなかったら 嫁の実家近くに住んでなかったら 「おまえが出て行けよ」って言えたかもしれません。つながりは一瞬で切れました。

2018/04/24

1963年生まれ30歳の年大きな出来事がありましたですその3

出張から帰ってきて、嫁の希望通り 親分の会社で働くようになった30歳になったばかりの男です。出張に行かずに事務所で型枠を作ったり、建設リース品や宿の手配、それから人員配置、社長(親分)と一緒に営業(とは言っても運転手です)等 仕事をしてました。 もうひとり、大学の頃 バイトしてて卒業してから就職したM君という子が同じような仕事をやってました。8つ程年下なのですが前から知ってる子で 人なつこくて仲良くやってました。しかし、職場では先輩でもあります。

嫁の思惑は、たぶん出張に行ってた頃の収入だったはずなんで、自宅から勤務が続くと出張手当もないし、あのときは臨時の職人で行ってたから単価もよかったので 社員になれば当然、あの時と同じような収入を得る事は無理です。アテがはずれたと思います。

 そういえば、失業保険の手続を人生初めてやってました。就職がきまれば就職支度金みたいな名前だったと思うんですけど、一時金がもらえてます。30万くらいあったと思うんですが、振込だったので 僕は通帳もカードも持ってないので使えなかったけど、
社員になってすぐに初めて責任者として 出張仕事に行きました(福島の原発)
フェリーの12時間は、ゆっくり出来ますが音と揺れに慣れないと睡眠がよく取れないかもしれません。
交替して 運転してましたがとにかく 遠かったです。
ちなみに泊まってた宿は、東北地震の時 流されたようです。営業してたかはわかりませんが。
Mくんとユニックに乗って 相当時間をかけて行ってます。あと 職人さんは新幹線とか公共の交通機関で来てました。10日くらいの仕事でしたが、途中2回ほど台風が直撃したので2週間くらいになりました。
家に帰ると、自分の家じゃないんじゃないかというくらい 家具を買ってたりしててびっくりでした。失業保険のお金で買ったんだなとしか考えませんでしたが、まぁ自分は仕事してお金さえ入れればいいのですから(もうこの時は財布は嫁に渡すように義母から言われてましたから渡してます)子供が不自由なく出来てればいいかと 思ってたわけです。

短い出張とかで数日 家を空けてましたが、基本 事務所勤務でした。事務所勤務はM君もそうだけど 段々事務所が嫌になってました。2人とも 初めの頃は いきいきして働いていたのですが、とにかく毎日帰れる時間が遅くて、営業とかで社長のお供をすると夜中遅くまで付き合わされ 朝は 普通に早く出てこないといけないし、休みも中々取れません。
社長と一緒に行くとなると 毎回そうなって 社長は昼頃 事務所にくるから 余計に不満が溜まってたと思います。とにかく朝は早く家を出て 帰りは遅い毎日でした。
いつも 寝不足でちょっと時間があったら こんな風に
Mくんが よく僕に寄ってきて「早く帰りたいです」と言ってたのを何度聞いたかわかりません。彼は独身のひとり暮らしでしたから 家に帰っても誰もいないけど それでも早く帰りたいって言ってたのですから 相当嫌だったのでしょう。
たまに出張とかあったとしても ほぼ 僕と行動を共にしてましたから 彼をよく理解出来てましたけど なにもしてあげれなかったです。

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2018/04/23

1963年生まれ30歳の年大きな出来事がありましたですその2


はじめて長期の出張工事で 関東のほうへ行きました。宿は千葉県の船橋市でしたが、現場は都内です。
当初はひと月くらいで帰れるかなと思ったのですが 春から8月までいました。
上京するときに、18と19歳の新人を連れて3人で行ったのですが、この2人はすでに僕が行くときに連れて行くことが決めれられた事のようでした。僕は社員ではなく 臨時の職人として行くので、当時は親分の会社の経費とかお金を預かるような事をしなくてもいいのですが、必然と親分の信用してる人間ですので そうなり 結局 現場が終わるまでいたことになります。そして 親分の弟弟子の人が責任者でいましたので その人のサポートもしました。

現場が長引いてこの人もなんか 心を病んでたようですが やっと終わって帰る時、九州から2台の自動車を持ってきていましたので 乗って帰らなければいけません。1台は軽の箱バンでもう一台は6人乗りのトラックです。
まさか最後の荷物の積み込みして 車まで自分が乗って帰るなんて予想してなかったけど
成り行きで仕方なかったです。
軽にはエアコンがついてましたが、トラックはついてない上に 道具も乗せて帰らなければいけません。残った人間は責任者の親分の弟弟子と僕、それに最所に僕が連れて行った若い2人です。他の人は 仕事に目途ついて時点で 少しずつ違う現場に行くために帰って行ったから、最後は4人だけでした。免許を持ってない若い2人でしたので、責任者の人と僕が1台ずつ乗って帰る事になり、軽の場合、道路をずっと走って帰る。トラックの場合は道具を積んで神戸から門司までフェリーに乗って帰っていいが エアコンもない。
どちらに乗って帰るのも 大変なんですが 僕は年上を立てて 好きなほうに乗って帰って下さいといいました。選んだのは軽の箱バンでしたから 僕はトラックで夕方までに神戸まで行き、神戸からフェリーで12時間ちょうどで北九州(門司)につきますので翌日の朝着くことになります。実は、フェリーに乗るのも初めてでうしろに道具とか積んでるからフェリーに乗り込むのは嫌だなと思ってたんですけど 仕方ないです。
そして、若い2人はひとりずつ乗って帰るか、早く着く軽の箱バンで帰るか決めさせる事にしましたが、2人とも僕と帰ると言い出したので、3人で東名高速などを通って神戸に向かいました。
東名高速の渋滞に巻き込まれ 炎天下の中 相当暑かったです。
ふたりが一緒に帰ってくれたんで、退屈はしなかったけど。
8月でしたのでエアコンがないのは キツかったですし、途中渋滞にも巻き込まれ3人共 車の中でぐったりでした。一方 軽の箱バンは前の夜に出発して一気に九州まで走ったらしく 帰り着いていたようです。
何ヶ月かぶりに帰ってきた九州でしたが、臨時の職人なので これから先なにか仕事を探さなければいけません。出張の間は単価もよかったのですが 嫁が持ってる口座に振り込まれてましたのでどのくらいあったか細かい数値はわかりません。今迄で一番よかったと思います。

出張に行ってる間に、嫁と親分夫婦の間で話し合いがあったようです。この時の収入に目がくらんだのかずっと働かせて欲しいと頼んだようでした。このことは僕自身全然しらなかったのですが あとでわかります。
大きな仕事が終わって慰労会が行われ、当然、自分も呼ばれて行ったんですけど、そこで次の仕事を頼まれます。出張ではなく事務所で型枠を作る事だったんですけど出張に連れて行った若い子たちの教育も兼ねての話でした。現場では雑用にしか使われなかった子達に 図面の見方や展開など工期に追われる事がないので ゆっくり教えられます。
もともと、自分でいうのもなんですが 面倒見はいい人なので 自分が坊主(養成工)のころ 親分の教えの中に、「俺からしてもらったことのお返しは 俺にじゃなく将来若いもんに返してやってくれ」というのがあって 頭をよぎりました。
なので、しばらく事務所の仕事場に行くようにしたんですが 9月から社員になるように言われます。すでに専用の机とかも用意されていたので 不思議に思ってましたが 社員達は知ってるというか 世話になってた人ばかりですから 大歓迎のようでした。

そこで、どうしてこのような事になったのかを 社長である親分が説明してくれました。
すべては嫁の願望である事。パンを売ってても不安だったという事や、前の会社ではこんなに収入はなかった。出張仕事を拒む理由に 「嫁や子供といつも過ごしたい」というのがあるんだけど、嫁がそれを望むのなら 自分も家を空けてて仕事してもいいんだって思いました。
「亭主 元気で留守がいい」こういう事を職人さん達の奥さんたちは言ってるようで、うちは違うと思ってた。健康で給与だけちゃんと家に入れてくれれば家にいつも居なくていいという事なんだそう。ということで 吹っ切れました。
1年前もこのことも気がかりだったから 一緒に辞めるかどうかの理由のひとつだったけど。しかし、嫁のアテにしてたことは期待外れになるのです。

2018/04/20

1963年生まれ30歳の年大きな出来事がありましたですその1


大工さんの仕事を始めて、年数が経過し養成工の時代も終わりの頃(29歳くらいです。)れんがの加工場に 外から臨時の職人がはいってきました。
そのなかに 僕の師匠になる親分のおとうと弟子という人がいました。親分よりちょっと年下で僕より10歳くらい上の人ですが この人はれんが職人として日本中をまわって仕事をしてる人でした。あとでわかりますが 喜怒哀楽の差が激しい人なんですけど 普段はとても優しくいい人です。
兄弟子である親分の言うことは、絶対でまず反抗することはありません。

よく聞かされた 親分や師匠が黒いものを「白い」といえば、それは「白」なんだと言われてました。ただし、心の中はわかりませんけど。
その人が外の仕事の事を色々、親分に話してるうちに 親分も自分の面倒みてきた(僕も含む)者の事も考えて 独立して事業を始める。そういう事になってきたようです。

計画とか時間がかかったと 思いますし そばにいてその話を聞いてる事もありました。
そして、決心も固まった頃 親分を慕っていた者数名も一緒に会社を辞めていくような事になって言ったんですが、会社も困るので そこはおそらく会社の仕事が間に合わないときは 優先的に手伝うような事を会社と話したんだと思います。
当然、僕も一緒に辞めると廻りの人は思ってたに違いありません。
親分に相談します。本人もまさかついてこないとは思ってなかったけど 一緒にやめるのは会社にとっても まして年が明けたばかりの自分は非力すぎで もう少しここで仕事を続ければ、かわいがってた者ひとりでも残せば、会社も納得するんではないかとそんな話をしたと思います。人質みたいな感じなんですけどそれで、会社も快く親分達を送り出す事にしたようです。
ということで、残りました。親分は辞めてからも会社の仕事の手伝いに何度も来てましたから疎遠になったわけでもなく 自分も休みの日とか親分の会社に顔を出してました。
しかし、辞めていってからは 大きな仕事が来たときはもうひとりでこなさなければいけませんし、親分の否定派だった職人も何人もいますから 風当たりもよくありません。
ただ、それまでは僕を下っ端養成工扱いしてた人達が すこし態度が変わったのも明らかでした。れんが加工するための大工仕事を頼まないといけないからです。

この会社で自分ひとりでやった大きな仕事はひとつだけ 印象に残ってるものがあります。溶解炉の炉床の木枠をつくるとき 通常はえぐれた球面ばかりでしたが やった仕事は球面の盛り上がった部分で外側の図面を渡されました。
杉材とコンパネで作ります。
釘打ちがたいへんなので 臨時の人を借りて仕上げました。
木材で球面をつくるには 完全には出来ませんが1週間考え構想を練りました。直径は4,5mくらいだったと思います。
制作にはひと月ほどかかりましたけど、検査にも一発でとおり なんか自信もついてきました。写真があればよかったんですけどないです。
しかし、一生懸命つくった木枠は 仮組みが終われば解体される運命なので壊すときはいつも切なくなります。

親分達が去ってから、1年が過ぎた頃 会社の中で毎年ある昇給の話し合いで 何日もかけて時給換算で10円UPとかで時間を取られて過ごす時間や親分の否定派の嫌みなど なんだかうんざりするようになって来ました。
あと、粉塵の事も気になってたんですけど、レントゲンを撮ってみたときに 塵肺の検査ですこし肺に影があると診断された事もあります。
この頃から、粉塵にたいして過敏になるようになったかもしれません。
目は、よくものもらいのように腫れ上がることも多くなり、病院にいくと 毛穴に粉塵らしきものが詰まっているとか診断され、なんどかメスで切ってもらっています。あとは腰痛ですね。
健康診断でひっかかって 再検査したけど数値が少し悪かったです。
今は異常なしになってますが、続けてたら悪化したかもしれません。
目のほうは未だに年一度くらい ものもらいのような感じになります。

仕事は、普通にこなしていたんですが(出張も行ってました)なんか もっと自分にできる事ないのかと思うようになります。

その頃 親分の会社は大きな仕事をかかえていて、人員不足で工期が間に合わないような話を耳にします。
親分の弟弟子が、責任者(棒心)で現場(千葉県)に行ってるのは 知ってました。
その中には、僕の知ってる職人さんや 大学生の時に親分のところでアルバイトしてた子(親分の会社に就職した)も 知ってる子でしたので 現場で苦労してる事を聞きます。
親分の会社に僕が 行かない事は1年前に決めてたんですが、ちょうど 会社にたいしてのうんざり感なんかも重なって やめてから とりあえず親分のところの仕事に加勢に行き、それから新しい道をさがせばいいと思うようになりました。

やめて すぐに加勢に行けば 会社との関係もあるので、少しの間、行かずに スターレットを売りはらい へんな車を買って パンの移動販売をはじめました。
パンの販売は 店舗に朝 必要と思われる量を取りにいって 日中に あちこちまわり 買ってもらうという 自由な仕事です。固定客がつけば 配達のような形になるのですが ほとんど飛び込みで売ってました。
当時は、まだ若かったので買ってくれてたでしょうけど
今、おっさんが行っても買ってくれる人は少ないと思います。
にんじん食パンは 人気の商品でした。
昼過ぎには、全部売れてなくなってましたので、量を増やしたら 売り切れない事もありますので 夜遅くなったりします。郊外に住んでる人や 年配の方なんかよく買ってくれました。ただ、収入が安定しないのが 不安でもありました。

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2018/04/19

1963年生まれ30歳間際、嫁に対する不信感


仕事も慣れてきて 子供も保育園に通うようになった。
義父が亡くなって、乗ってた軽自動車は娘(嫁)がもらい受けた。嫁の実家は嫁を含む3人の子供がいたんだけど なんか おとうさんが亡くなった後に、義母がお金とか車を子供達に分けたようである。車は今迄 家になかったものがあるのだから 見たらわかるが お金はわからない。おそらくお金ももらってるはず。嫁はそのことは言わなかった。

そして、子供が昼間 家に居ないのでパートに出ると言い出した。
これについては 全然 問題ないし 家計が助かるのであればと思った。
自分の給与は結婚以来すべて 嫁に渡してましたが それで生活出来ていたけど子供も大きくなってお金がいるとはわかっていたけど  なんか不信感が生まれてきた。

娘が 歯の矯正に通い出した事も知らなかった。そのことをどのくらいかかるのか予算を聞いたことがあったのだが、そのときはじめて おとうさんが亡くなってから義母からお金をもらってたということがわかった。そのお金で矯正をはじめたという。
歯がガタガタな歯並びじゃなかったのだが 子供に使ったとなると なにも言えなかった。

パートに行くようになって なんか服装や化粧も派手な感じになったなとは 感じていたけど 若い時から今迄 子育てや 少ない旦那の給与でやりくりしてきてくれた人だから 少しぐらいいいかなと 思ってたんだけど 化粧品がそんなにお金かかるものだと知らなかった。嫁の友達がセールスをやってて 家によく来てる事があったし ママさんバレーのメンバーでもあるので 僕とも顔なじみだ。
化粧品は、自分もニキビで洗顔を買った事あるから高いって認識があったけど
このとき思ったのは 値段のわりに量がすくねっって思っただけだったんだけど…
ある日、家で風呂から上がって暑いのでエアコンで涼んでたと思うだけど、テーブルの上に小さな見慣れないビンがあったので なんかなと見たら 美容液と書いてあった。
食事の支度をしてる嫁にこれどうしたの?って聞いただけなのに 逆ギレされる事があった。化粧品なんで 男が触っちゃいけないのかくらいしか思わなかったけど 定価15,000円と書かれてたのは覚えてる。
だいたい、定価って書いてあっても そのままの金額ではないだろうと自分なりの見解だったのだが、そのときはそれで終わった。
でも、他にも同じような価格の化粧品がはいってる箱にあるのは知らなかった。肌を検査してその人にあう化粧品らしい。

また別の日、家に電話がかかったので 取ってみると 国際電話(アメリカ))からコレクトコールだという。自分の身内は たしかにアメリカにいるが 他に心当たりがないし アメリカの親戚はそもそも 家の番号を知ってるわけない上に コレクトコールとかしてこない。すると 横で聞いてた嫁が慌てて受話器を取り「それ、私」とかいって コレクトコールを繋いでしばらく話してた。
元々年下の男の子が好きだっていうのは知ってたけど
コレクトコール→支払い→俺?の図式が腹立った。
切ってから、誰からかと聞くと パート先で一緒に働いてたずいぶん年下の男の子だという。アメリカに旅行に行ってて そこからコレクトコールで電話してきたようだ。
電話かけてきても別にかまわないけど、たいした話でもないのにコレクトコールに一気に腹が立ってきた。電話の請求書をあとで みると一度や二度ではなくしかも、料金がすごい。

なので、そのころから給与を全部渡していたのを 食費や光熱費 家賃など多めに見繕って必要なだけしか渡さないようにした。

パートに行きたいと言い出した理由は、化粧品や洋服の支払が僕の給与では全然足りなくなって自分のパートの給与も全部支払いに当ててたようだ。
どうにもならなくなったんだと思う。嫁はパートを辞め 夜、週に2~3回飲み屋で働くようになった。このペースで働いても僕の収入より多かったと思う。しかし 夜はたらくのは長続きせず 昼間 事業所などでマット交換とか掃除用具の交換する仕事の会社にはいった。フルタイムで働きはじめた。

仕事に行く時、すでに義母と一緒に車に毎日乗せて行くのは嫌だと断ってたので、行ってなかったのだが、たまにどうしても 足がないときは頼んでくるのでその時は 一緒に行ってたが、義母から「財布の紐は女にもたせないけんよ」と言われたことがある。
そのとき 化粧品の支払の事とかなにもいわなかったけど 「あいつ なんでも親や姉とかに話すんだな」とわかった。
ママさんバレーチームの忘年会の席での事
一番年下の僕は茶化されるのは当然だったが、その場は話を合わせたけど
いっぺんで 酔いが覚めました。
それだけじゃなく性生活の事も ママさんバレーのチームで忘年会に出席した時に チームメイトがそれらしき事(頻度や大きさとか)を酔って 言ってきたので なんでも人に話をするんだとわかった。最悪である。

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2018/04/17

1963年生まれ30代前の出来事その2

冬の寒い朝、通勤前に暖機運転をしようと マーチにエンジンをかけたところ車に乗らずに、ドアを開けてキーだけまわしたんですが、なんとすごい勢いで走り出して 車に乗り込む事もできず マーチは団地のベランダのくぼみに 激突してしまいました。
ボンネットは、折れ曲がりエンジンももうかからない状態でしたが とりあえず親戚の自動車工場に勤めてる人に連絡してみてもらいます。
その前に、10万Kmも走ってないマーチですが5万kmに満たない前に タイミングベルトも切れた事がありました。
買ってからすぐに へこまされ 嫁がぶつけて修理、タイミングベルトが切れる。等 ほんとツイてない車でしたが、すぐに車検もくる頃だったので5年ほど乗りましたけど さよならすることにしました。
一瞬の出来事でした。車に追いつけず途中もう諦めました。
人を傷つけなくてほんとによかったと思ってました。
スターレット、調べたら4世代目のモデルのようです。
今度の車は トヨタのスターレットでSというグレードです。排気量が1000ccのマーチから1300ccになるわけですが 広さは大差なかったけど  初のオートマチックミッションです。
クラッチがないってこんなに楽なんだって思いました。
なんか 坂を登るときもマーチみたいに必死じゃなくて エアコンも充分効くしかなり気に入った1台でした。当時、なんか洗車ブームみたいになってて みんなよくコイン洗車で洗ってましたけど、休みの日の朝 行っても並んで順番待ちをしないといけないような状態だったです。ほんとはスポーツカーみたいな車とかセダンの大きい車を欲しがる年頃なんですけど、僕はこうゆう車が値段的にもあってるんだなぁって思ってました。
しかし、下取りはあったもののローンです。
嫁の姉からこの時「分相応って言葉知ってる?」とか嫌みを言われましたが 嫁のおとうさんはローンの保証人にも自分がなってあげると応援してくれてました。
義父は、実は昔 町の時計屋さんをやっていて 人口もへりその店を辞めてタクシーの運転手をやってました(1日働きづめて次は休みで昼間は寝てる勤務)が 持病のぜんそくがあって あまり会う機会はなかったけど家にいけば快く迎えてくれる人でした。
子供もかわいがってくれる人です。一方 義母は子供は嫌いな人だったので 嫁の兄弟の子供たちも(孫になるわけですが)じいちゃんは好きだけど ばあちゃんにはなつかないみたいになってました。
僕の娘も家で誕生日のお祝いをするから ばあちゃんに 相当勇気を出して「ばあちゃん、誕生日に家に来てね」と言ったことがありますが、小遣いやるからなんかおかあさんに買ってもらいなさいと帰ってきたことがあります。誕生日会にはこなかったはずです。
そのかわり、必要なものは気前よく出してくれる人でもありました。たとえば いらないというのに久月の7段ひな人形(相当高かったと思います)とかランドセルとか。
娘は、女の子の人形好きではないのでなんかあまり興味を示しませんでしたが 翌年もひな人形出してあげたときには(たぶん4歳)おひな様の頭を取ってなんか違う男の頭とかに付け替えたりしてました。さすがにおかあさんには怒られたみたいですけど。
そして、義父の病状があまりよくないことになってきて 前は自分で車を運転して定期的に病院に行ってたんですけど なんか無理そうなので 僕が仕事を休んで連れていくと言ったんです。今迄なら仕事休んでまでしなくていいと言う人だったんですけど、その日はなんかあっさり 頼むねって言われました。
義母も付き添いで3人で僕のスターレットのうしろに乗せて病院に向かいます。
病院はちょっと遠くて1時間弱かかるところでしたが 行く前から義父がすごく苦しそうだったんです。走り始めて15分もしない頃に うしろの義母が騒ぎ出します。
「おとうさん、おとうさん」と呼びつづけ、声も大きくなって 僕も驚いて車を路肩に止めみると すでに意識がないようでした。自分が車で病院に連れて行くより近くの病院で早く処置してもらったほうがいいと とっさに思い救急車を呼びました。
土地勘があれば 自分の車でそのまま近くの病院に行った方が早かったかもしれません。
救急車はすぐに到着して、病院もわりと近いところに運ばれたのですが、義父はそのまま意識は戻らず病院で亡くなってしまいました。

義姉、義兄など知ってる親族には連絡をし、嫁にも僕の知らない人には連絡を取らせたりしましたが、嫁もおとうさんをなくした娘です。冷静に動けるのは僕と義兄の奥さんだと思い来てもらいました。会ったことはあるんですが挨拶程度しか話したことのない人でした。
娘を連れてのお葬式は3度目になりました。祖父、祖母、義父と。
会社のほうで社員の家族のお葬式に散々手伝いに行かされてましたので
なんか葬式慣れしてる時期でした。
葬儀場だと椅子に座れるし、片付けもほとんどないからいいよねとか
幼いときに父をなくしてたからおとうさんと呼べる人が出来てたのに、またなくしました。結婚の時から応援してくれてた義父でした。亡くなってから葬儀やらバタバタとするんですが義母も見たことないように肩をおとしてます。嫁の兄弟は姉と兄の3人でしたが僕はできるかぎり、義父と家族がお別れを雑用になどにとらわれないように 出来る事は率先してやりました。近所の人の挨拶もまわりましたし 葬儀の準備もすすめていきました。
それまで、話もしたことなかった 義兄の嫁も なんか打ち解けて一緒にやってくれました。これを機会に、義父はいませんが 残された家族が仲良くなった感じです。
ずっと後に 聞いたんですけど、義母がこのときの僕の事をとても感謝してると。
近所の人達にも評判がよかったらしく 好印象の娘婿になりました。
後に、初盆や法事が行われますが 義父の子供や孫達はそれまでは集まっても すぐに帰ってましたけど違うようになりました。

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2018/04/16

1963年生まれ僕の30代前その1


煉瓦工の養成工から職種を転向してからというもの 圧倒的に仕事の種類が多いことに気がつきます。外に出ての工事もありますのでたまには 出張とかも存在してました。行くところはそんなに遠くはないんですが 養成工の時代に行った一番遠くは広島のマツダの工場でした。ここではアルミの溶解炉とかもあって、はじめて耐火物の解体工事もしました。
ピックやチッパー、ブレーカー等のエアツールを使うのもはじめてでした。そもそもその工具自体が重いのに身体もフラフラしてます。コツをつかめばいいんですがそれでも体力勝負です。
耐火物にはれんがの他、不定形耐火物というものがあって(コンクリートのようなものです)それは 解体に大変苦労しました。
耐火断熱になると簡単に壊れるのですが表面のものは、一晩中何人もの人がやってもほんの少ししか解体できないという事もありました。ある程度壊れるまでは そんな感じですがあとは 一気に解体できるみたいです。

ブレーカーを一日中使ってると振動が激しいので夕方、仕事が終わって帰るときは手が震えたままでなかなか回復しません。ある日、炉床(床)の解体をしてる時に、当時、アルバというブランドの(たぶんSEIKOのカジュアルブランド)腕時計をいつもしてたんですが、その日時間を見ると文字盤が中ではずれて 回転してました。一緒に行ってたおじさんが、自分が時計屋に持っていって修理を頼んでくるとかいうので、修理代の方がきっと高いと思ってたから断ったんですけど 大丈夫とかいうのでまぁ預けたんですけど、「修理できないから買い換えろ」と言われたとか言って戻ってきました。
それから、しばらくは時計はつけてなかったんですけど、誕生日に嫁が欲しいものがあるかと聞くので、G-SHOCKが欲しいと言ったら、買ってくれました。そのときは まだG-SHOCK自体知名度も低く 黒が主流のG-SHOCKでしたが 青いのがあったのでそれを選びました。
解体作業や測量(レベル出し)など 初めてやる仕事ばかりで毎日楽しかったです。
G-SHOCKは1万ちょっとくらいだったと思います。さすがにタフに出来てました。
ごつくて、たまに足場とかに引っ掛かったりしてたんですが、ブレーカーを使っても大丈夫でしたし 汚れてもゴシゴシ洗ってましたけど長い事、使ってました。機械の部分は電池交換でいけたんですが、ベルトとか本体がぶつけたりこすったりしてたのですり減ってダメになりましたが10年くらいはそれを使ってました。

他に、大工さんになったら 道具の手入れも大事で、日頃から特に刃物類の研ぎとかは横について教えてもらっていましたが、どうしても刃先が丸くなってしまい、教えてくれる大工さんは自分の道具ではないので修正もしてくれません。自分のは自分で管理です。
ノミは、刃の部分が少ないので まだよかったのですが、かんなとなると一日中、研いでました。
かんなの刃の裏とかは、自分の唾を使ってやってましたが枯れてしまいます。
砥石の砥石とかあるのも 初めて知ります。
包丁の研ぎもやってたんですが 刃の部分が長いからやりづらかったです。
横でじっと見られてるとかなり 緊張してやってました。

昼の休憩時間は 1時間あったのですが はじまるとすぐに食卓を用意してお茶をいれ 大工さん数人で弁当を食べてました。煉瓦工の先輩も一緒に来てましたので5人くらいかそれ以上の人数です。食卓は、家具調こたつみたいにきれいなものだったのですが、大工さんが作ったものだったのに驚きます。ひのきで作られたものでニスを塗ってましたから 買ってきたものだとずっと思い込んでいました。
弁当は、業者に注文して配達もしてもらえたのですが、大工さんはみんな奥さんの作った弁当を持ってきていました。僕もそうなんですが、実はこの弁当 結婚以来 テンプレートがあるかのように毎日同じ感じでちょっと飽きもあったんですけど、大工さんが交換してくれるとかそんなこともありました。さすがに捨てて帰ることはありませんでしたけど 義母と交換してもらおうかと思って一度行ったら、あの子(嫁)の作った弁当とか食べられんとか言って断れたので、それ以来 頼みませんでした。
昼休みには長の大工さんがたくさんの話を聞かせてくれてました。
この頃は「にいちゃん」とか呼ばれてましたから僕は気にも留めてなかったけど
親分はちょっと不満のようでした。
弁当は10年ちかくこの形態で感謝はしてましたがさすがに 飽きてました。
それにしても、大工の作業場にあったストーブ毎日、冬の間 1日1缶くらいの灯油を消費する強力なやつでしたが、灯油を汲みに行くのも僕の仕事でこれも 大変でした。遠くに保管場所があるので2缶ずつ 1日おきに汲みにいってました。

前に書いたエピソードで 後に僕の師匠になるといった大工さんがいるのですが、いつもは○○さんと呼んでましたが いつのまにか親分と呼ばないといけないように廻りの雰囲気でなってきました。元れんが工でこの人も、大工さんに転向してます。でも、れんが工としても、一職人さんなので僕とは違います。なのでこの人のおかげというかこの人のせいで 仕事の種類が多かったんだと思います。
そもそも、大工さんが解体工事でブレーカーをもってやらないです。でも この親分のおかげで僕も目立たなかった人から 目立つ人になれました。しかし、全てにおいて中途半端で終わってます。その職種のエキスパートにはどれもなれなかった事です。
とりあえず、どんな仕事もやって そつなくこなすので便利がられて自分で自分の首を絞めてるようなもんでした。
事務仕事も、グラインダーの修理(ベアリングの交換とか)れんが工の仕事が間に合わない時は、応援(がんばれ~とか声援じゃないですよ)としてれんが工の仕事もやってました。なので、通常5年の養成工の期間を異例の4年であけてもらいました。
職人としての仕事が中途半端にしかできてないので 年があけても職人になったとは恥ずかしくて言えなかったです。

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2018/04/13

1963年生まれ職種転向と腰痛のはじまり

25歳になって れんが工の養成工になったんですが、会社には他に大工さんの職種があります。大工さんは築炉大工と呼ばれ型枠大工さんのような感じですが、別物らしいです。60を過ぎた長の大工さんと30代後半のふたりの大工さんの3人が それぞれ仕事をもってやっていました。大工さん同士一緒に仕事をするような事は稀だったと思います。
大工さんのひとりが 仕事が大変なときは れんが工の中から人を借りて手伝わせるという方法がとられていました。
呼ばれるのは、若い者で職人さんは滅多に呼ばれないですが 僕も当時は若い者で下っ端ですから 9割以上の確立でさらわれます。

呼ばれる時の大工さんの仕事は、大型のれんがのセット(仮組み)用の 枠なのですが 主に溶鉱炉の炉床なので、図面では球面になっています。
そのため、完全な球面は無理ですけどそれに限りなくちかいものを 木材で作らなければなりません。小さいものだと削ったりとかで出来ますが 何mとかになるので 部品を組み合わせて作ってました。たくさんの木材の加工が必要なので手伝うために連れて行かれるのでした。
親分は自分の本当の師匠となって面倒をみてくれますが
ご覧の通りの人です。仕事は ずば抜けてこなしてました。
覚えてないのですが 最初は自動カンナで杉板の一面をまっすぐにしていくという作業だったと思います。枚数が多いので結構時間がかかりましたが そのあと墨付けをして曲線をバンドソーで切っていくという作業の手伝いをしました。1枚は2m以上の長さがあったと思います。なので取り回しがたいへんでした。
大工さんたちは 床にベニヤ板を敷き詰めて その上に図面の寸法通りに原寸というものを書き込みます。そこから形を取りだして部品の型板などを作ったり 木枠の設計を考えます。原寸といっても簡単に図面から写しとるのは大変です。
球面とかは 必ず曲線を書かないといけませんから、長い半径の描けるコンパスが必要だったり、しかしこれも限界があります。部屋の広さもですが 長くなると重くなってたわんだりするので正確には書けなくなってしまいます。直線も、2mくらいなら長い定規がありましたがそれ以上になると糸を張ってやるか 墨壺を使うとか工夫が必要でした。あと角度もあるので、紙の上に書くのなら 分度器とかありますが 原寸となると狂いが絶対に出来ます。
そこは、三角関数を使ってやってました。サイン、コサイン、タンジェントってやつです。
このあたりが、現場にいる型枠大工さんと違うところです。現場では現場合わせで仕事をこなしているので、経験とか器用で頭のいい人が普通思いつかないような事をして仕事を納めてます。
こんな感じで床に原寸を引いていきます。
色々考えることがあって楽しい仕事でした。

そして、大工さんの仕事の手伝い(手許)に頻繁に行くようになり 毎日グラインダーで真っ黒になりれんがを削っていた日々から、割ときれいな環境で仕事をすることが多くなってきました。いつのまにか、れんが職人の養成工から大工の養成工に職場転向になってしまいます。会社からも大工道具一式支給され、大工の弟子として毎朝 大工さん達の飲むお茶のお湯を沸かすことから 道具の手入れ、作業着の洗濯など 今迄と違う環境になりました。

実は、僕も例外にもれず やはり腰の状態がよくありませんでした。一番ひどかったのはもっと後になりますけど、この頃もすでによくなかったです。中学生の頃のバレーをやってるときも少し悪かったのですが、すぐに治ってる気がしてました。
まわりの人とか聞いた あそこに行けばよくなるとか あそこの病院がいいとかいわれ行けるところは行ってみましたが、整体は帰りは涙目になって帰ってましたし、評判のいいとすすめられた鍼灸院は なんか建物自体怖い感じで 地下室に行かされて治療されました。
「なんども来るより一度だけで治る治療があるけど どちらがいいですか」という質問をされ、一発で治る治療は とても痛いという前置きがありました。
同じところに続けて行ったことはありませんが、針治療は最悪でした。しかも少し寒い時期だったはず。

お金も時間もかかるので 痛いのは我慢して一発で治るというほうを選びましたが 地下に行くと着替えをするように言われ、シャツやパンツを全部着替えます。血がつくかもしれないのでそこが用意したものに着替えるのだという事でした。
まぁ ぼちぼち痛みをこらえて生活をしていきました。

おじいさんの先生ひとりでしたから別にいいんですが、ベッドにうつ伏せになってからは上を脱いで下は下げますと言われましたが腰だけなのにほぼ全裸です。 裸のままで着替える必要ないじゃんって思いました。そのあと、濁ったお湯のはいった風呂に入って帰るように言われましたが、針を刺されたのが痛くて腰の痛みがわからなかったという感じで、治りはしませんでした。

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2018/04/12

1963年生まれ20代後半頃 昭和から平成に変わった頃です。

この頃、子供も保育園に行くようになって同級生のおかあさん達と交流が多くなってきました。
保育園の初日 はじめて行って帰ってきた娘は ひっかき傷をたくさん作って帰ってきました。仕事から帰って 嫁に聞くと同じクラスの子とケンカしたらしく 迎えに行ったときに相手のおかあさんに 謝ったそうです。
だいぶやられたなぁと思ってましたが、相手の子のほうがもっと傷だらけだったそうです。原因は、トイレのドアを開けたとかそんなことだったのですが…
保育園に行くまでは、結構悪かったのですが 行きだして少し女の子らしくなりましたが、男の子に生まれたかったという娘は ずっとスカートを拒否します。なので小学校まではスカートをはかない女の子でした。
おかあさん達どおし 地元の人が多かったので中学までは一緒だったとかで仲良しみたいでしたし、嫁も地元ですから知り合いばかりです。
そのうちに ママさんバレーのチームを作るという事になったらしく 実は元全日本のキャプテンだった人が引退して地元に帰ってきて生活してましたから その人も同じ中学だったので 中学の時のチームメイトを集めてママさんバレーのチームを作っていました。
そして、嫁たちが作るチームメイトは その人達のひとつ下の人がメインでメンバーを集めたという事でした。だから 結構上手な人ばかりで強いチームになるんだろうなと思って話を聞いていくと、コーチはどうやら すでに自分になってました。
まぁ運動不足もあったし、練習も頻繁にあるわけじゃないので引き受けたのですが 練習初日に行ってみて ほんとにバレー部やったん??って人達ばかりで 組み手のやり方とか姿勢などいちからはじめないといけなかったです。
中学生の頃、活躍してるのをTVでみていましたが若干身体が大きくなってましたが
スーパーとかで会うととても感じのいい挨拶をしてくれる人でした。
体育館を借りてやってたのですが、練習時間2時間とかで半コートずつ 他のチームと一緒になってましたが 元全日本のキャプテン率いるチームと一緒になったときに「あの人は今?」みたいな番組のために取材の日に一緒になった事があります。
練習後半、各チームわかれて乱打を行ってそのシーンを撮影することになったらしく、うちのチームは到底相手になれるほど出来ません。アタックを打ってくると一斉にコートから逃げ出したりするのですから。放送された時見たんですけど 司会の人(徳光さん)が「あのアタックにあたれば交通事故にあったみたいなものですね」とか行ってました。実は、うちのチームメイトだけでは到底無理なのでコーチも混ざって下さいと言われたので僕もコートに混ざって入ってました。
引退して数年たってても さすがに全日本とかで活躍されてた人ですがブロックにとんでもかすりもしないし、軽く打ってるように見えるサーブもずっしりと重くてはじかれてしまいました。
ママさんバレーのコーチは30歳までやってました。試合にも行きましたが全敗です。

普段は仕事が17:00きっかりに帰れるのですが、毎日2時間ずつ残業があって、しなくてもいいんですけど 養成工の身、仕事も早く覚えて残業をしていくらかでも給与を稼がないといけません。そのまえに 義母がいるので残業しないと問い詰められます。
なので、ほとんど残業はしてましたから19:00に帰れます。
家に帰ると、1時間弱で帰り着くから帰ったら 夕食とあとは寝るだけでいいのですけど たいがい、嫁は風呂は済ませてますが 子供が「パパとはいる」と言っておかあさんとははいらないらしいので(嫁のウソかもしれん)また お風呂にはいります。小学1年くらいまでは、平気でしたが なんか自分が恥ずかしくなってきて一緒にはいるのはやめました。
座ったり横になると登ってきたり上に乗ったりして小さいときからの癖なのかもしれませんが
耳の穴に指をつっこんだり目をひっぱたりする子でした。
あとは、家に居るときはできる限り遊んであげます。(この時はまだ想像もしてないけどもうあまり残り時間がないです)自転車の時は 補助輪を外してと言われて 最初はうしろを支えて練習してましたが ひとりでどこかに行って練習してきたらしく夕方には乗れるようになってました。鉄棒の逆上がりの練習もひさしぶりに自分もやってみました。そういえば小さいとき 練習したなぁと思い出しながらやってます。
夏休みとかになると 毎年 海水浴にも連れていきましたが 父に似てるのか飽きやすくて一日中海に居たって事はないので助かってます。 スペースワールドは最悪でした。並ばないと何にも乗れないので 入れるところに入ったら人形劇だけ。弁当を食べに行った様なものでした。
プールに連れて行った記憶がないので、たぶんおかあさんと行ってたんでしょう。
ちなみに おかあさんとパパで呼称してました。おとうさんは似合わないんだと言ってました。
というわけで、収入は少なかったけど残業をして生活できるくらいはなんとかなってました。また、子供も保育園に行き始めたので嫁も パートに出るようになりました。いくらもらってたか知りませんが生活の足しにしてたわけでもなく 自分の化粧品や遊ぶお金に使ってたようです。たぶんの僕の給与では賄えなかったのだと思います。

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2018/04/10

1963年生まれ25歳新しい生活

北九州のほうへ親子3人引っ越します。このときは25歳になる年です。(1988)
嫁の実家近くにアパートをかりましたが 市営住宅の抽選に当たったので、市営住宅に入れるようになりました。
あとは、仕事を順調にすすめれば 問題ないように思ってました。

計画では、嫁の母親の仕事を手伝うという事で 引っ越してきたはずなんですが、どうもその様子がなく やらないと言い出します。これは自分の中では大きな問題ではなかったです。 働かなければいけません。でも 仕事はまだ若いから見つかると思ってたからです。ひと月ほど 職探しをしてました。
そんなとき、嫁の母親の務める会社は 5年間修行をすればそれ以降高給になるから 考えてみないかと 嫁の実家で言われます。5年間は長いけど、子供もまだ小さいし今なら大丈夫と思ったのでしょう。その話に乗りました。

すぐだったと思うのですが、義母の付き添いのもと 面接と職場の見学に行きました。
すぐに働きはじめる事が出来ました(義母のおかげなんでしょう)通常、社会保険もすぐには作ってくれないらしいけど 入社からすぐに準備してもらえました。
仕事は、一般的にあまり馴染みのないものと思われます。たぶん知り合いがやってるとかじゃないかぎりその職になろうと思わないと思います。大工さんとか左官屋さんは馴染みがあるけど、れんが屋さんはちょっとマイナーな職人かもしれません。
建設業許可の業種では「タイルれんがブロック工事業」に分類されると思います。一般的に築炉業とか窯業と呼ばれるかもしれません。

僕は、そのれんが職人の養成工(弟子)としてはいったわけです。25歳になったばかりですからすでに遅めです。ひとつ年上の職人さんがふたり程いましたが 養成期間が終わって職人になったばかりでした。おそらくもっと年上の人達は 中学を出てすぐに弟子入りして職人になった人が多数いました。
れんが職人の仕事は多種あるんですけど、フリーで全国の現場で仕事をしてる人とか、会社に所属して旅をしない職人さんとかやり方も多種あると思います。
旅をしないのは たぶん 自宅から通勤したいとか れんが屋さんは大体 腰が悪い人が多いので無理を避けるためとか理由も様々なのかもしれません。あと 腕のいい職人さんは呼ばれる事も多いでしょうから。

絵は比較的小型の仮組みですが グレーの部分がれんがであり 溶鉱炉の炉床になる部分です。
実際には、粉塵で視界が悪くこんなに人がはっきり見えない環境で作業してます。
おおまかにいうと僕の入った会社は、八幡製鉄所の溶鉱炉で使う耐火れんがを加工し仮組みをするところでした。れんがを作る大手の会社の下請けでもあります。
ある程度形のあるれんがを 持ってきて切ったり 削ったりして図面どおりに加工しセットします。れんがというと たぶん赤れんがを想像すると思いますが、耐火れんがの並れんがは白っぽいそんなに大きくはないですが 会社のものは1m以上あったり まぁひとりでは動かすこともできない大きなれんがです。色は主に黒のイメージです。お墓の墓石を想像してもらえばいいかなと思います。
職人さんが四角から円柱の形をくりぬいて加工してるところ。2枚ひと組で完成。4つ割りとかもある。
丸のこなどで 切れ目をいれておおまかに取り、チスである程度はつったあと 両刃でこまかくはつり
グラインダーで仕上げるという結構時間のかかる作業です。
最初のうちは、仮組み(セット)したものを バラしてパレットに積込 出荷ができる状態にする仕事でしたが これは重量物であるので 体力勝負です。あと指をはさんだりしたらすぐに指がつぶれてなくなるくらい重いので注意も必要です。それと腰が悪くなる事が多いです。
そのうち、加工をやらされますが手作業のディスクグラインダーにダイヤモンドの刃をつけてれんがを削るのですが、粉塵が半端ないので作業服の上にヤッケと呼ばれる上下を着て フードを被り その上にヘルメットや 防塵マスク、保護眼鏡など保護具を装着して一日中やってましたが、ありとあらゆる隙間から粉塵がはいってきて 身体に付着し 帰る頃は元は誰なのかわからないくらい真っ黒になるときもありました。
目はアイラインを引いたようになって ぱっちり目になりますし、耳は気がつかないけど真っ黒に汚れます。
会社には お風呂が完備されていて、ほぼ全員はいって帰ります。というかはいらないと帰れない感じでした。
職人さんと養成工の他に 女の人(おばちゃんしかいないけど)や 臨時の人がいますが50人くらいはいたんじゃないかなと思います。
入社した当時はこんな感じの体型でしたが どんどん細くなった気がします。
なんか毎日 げっそりって感じでした。
ということで、仕事の日は風呂に入って帰りますけど 家に帰ってもなんか 汚れがとれてない感じでした。子供も風呂にいれるのでまた はいります。
あと、僕の憂鬱ということで 通勤は自分の車で行ってましたが、毎日行き帰り共に 義母を助手席に乗せてることでした。会話もそんなにしないし 車の中では気をつかって 音楽やラジオもつけれないし息が詰まりそうでした。
酒を飲んだときは 陽気なおばちゃんなんですが 普段はとっつきにくいおばさんです。冗談も通じない堅物ってそんな人でした。

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2018/04/09

1963年生まれ25歳分かれ道に遭遇


1988年、この年の春に いつも可愛がってくれてた祖父(母の父)がなくなった。
お葬式のために久しぶりに 中学生の頃まで住んでたところに 帰ってきた。24才の時だから10年近くになる。近所の人たちは、僕を見る目が違う。嫁をそんなに早くもらう様な男じゃなかったからだ。奥さんと子供を連れてる。それが異様に見えたのかもしれない。
色々とあれこれ聞かれたが、立派になったねと褒めてもらえるが 全然立派にはなってない。そして、この年までで また自分の道を大きく曲がったともいえる。滅多に集まる事のない親戚が集まったが、アメリカの叔母は高齢のために帰ってこれないという事で 生花や花輪を置いていたが 名前が 田舎であるのに アメリカ名で掲げてあったのが笑える。知らない人からは「じいさんに飲み屋のねぇちゃんから花が届いとる」なんて言われる。兄の子供が うちの子供よりひとつ上で、いとこ同士仲良く遊んでたが 声がそっくりすぎでびっくりした。姪っ子は関西で育ってるからうちの子とは 語尾が違う。電話でなんどか話したけど、声が似過ぎてて間違えそうだった。血のつながりってやつかぁって思った。
子供が生まれてから25才までは、自分の親兄弟の近くに住んでいた。
食事は夫婦交替でやってましたが子供優先です。
歩行器は誰かのおさがりだったのですが、一気に行動範囲がひろがるので目が離せません。
この間、3交代の仕事をやってきてる。
朝番、昼番、夜勤、休み2日毎変わるというしくみだ。年末年始は仕事が止められないために 数人は休みはなくいつもの通りの勤務だ。その数人の1人でもあった。
仕事は、覚えることもたくさんあって充実してたけど、家に帰ると 子供と奥さんがいるので まじめに 働いて食べていけるように頑張らないといけない。自動車はどうしても必要なのでマーチを持っていたが、
元キャンディーズの伊藤蘭さんのCMでみたものです。
他のスクーターに比べるとひとまわり小さいようでした。
通勤はバイクでも出来るのでいつの間にか 嫁が買ってた スズキ蘭というスクーターで行くときもありました。主に昼の勤務の時だけですが。バックミラーがすぐに盗まれちゃうんですけどね。
自分一人で遊びに行くこともなくなったし、欲しいものがあっても自分だけでは決められない。洋服も自分で選ぶとかできなかったようだ。それでも、やっぱり家族がいるのはいい。
しかし、少しずつ嫁に対して 不満も出てきたのは確かだった。
まずは 友達の扱いで、高校の時からとても仲のよい友達がいて そいつも結婚して うちへ夫婦で遊びに来ることもあった。友達の奥さんが 気にいらない様で扱いがなんか みてて嫌だった。嫁の友達が来たときとは全然違う。それに うちの兄弟や親戚が来ると嫌がる。
夜勤の時は、昼間寝てる事があって その時に嫁の友達が遊びに来たりしていたが 僕は嫌な顔をした事がない。もしかしたら嫌な顔してると思われたかもしれないが。来たら子供も可愛がってくれるし、どっちかといえば歓迎だった。
しかし、嫁は僕の性格とか気持ちを全部わかってるような態度を他人には示す。それが気に入らなかった。それは ずっと続く。
とにかく 子供がいるので、前にも書いたけど 自分はそれで幸せだった。
NHKのニコニコぷんのキャラクター「じゃじゃまる」のぬいぐるみがないと寝ないのですが
あれば、すぐに寝るので親としては大事なアイテムでした。2代目も買ったと思います。
毎日成長していく姿を見る事が出来た。言葉もよく話すほうだったから
余計にかわいい。
しかし、仕事が 平日の休みが多かったので、なんとなく自分自身が置き去りにされた感じがあったから3交代の仕事をどうするか考え出した頃、嫁の母親がじきに定年退職をするという話があって、商売をすると嫁から話を聞いた。
3交代の仕事もいいけど、一緒にやってみようと。
今、思えば 自分の親兄弟の近くに住みたかったんだなと 思う。 そういえば 盆正月にはうちの親のところにはいかないけど 自分の親のところにはかならず 泊まりがけで帰るなぁとか。そのときは そんなに感じてはなかったけど。
そして、3交代の仕事をやめて 家族3人で北九州市へ引っ越しました。 ここが自分にとって大きな分かれ道だったと思います。後悔しても仕方ないけど...
自分がその道をうまく通れなかっただけで。 たしかに分かれ道は過去にも数回あったけど今回は 複雑な道に行ったと思います。

2018/04/07

1963年生まれ21歳パパになった頃

1985年の春、当時3交代の仕事をしてました。
家には 嫁は出産が間もないので実家に帰ってました。
いない間は、会社の人の家によばれたり 仲のよかった人とワイワイやってましたが 夜勤明けの時に 嫁の姉から連絡があり 陣痛がはじまったので病院に運ばれたと聞きます。

すぐに病院にいったけど 嫁はまだ笑顔で生まれてくる気配もないようでした。
しかし、出産予定日よりかなり遅れてましたから、今日明日には生まれると病院の人に言われます。
昼になるまで、何度か分娩室に運ばれて戻ってと繰り返されましたが、姉もおなかすいたねって言うので、僕はひとりで外の弁当やさんに買い物に出かけました。すぐ近くだったので時間はそんなにかかってないです。
病院に戻ると もう既に生まれてました。女の子でした。その姿を見ることはできましたけど、男って自分が痛いおもいをしたわけじゃないので子供が出来た実感ってこみあがってこなかったようです。母子共に健康でしたから 退院後は、しばらく嫁の実家に行ってましたけど 自分も仕事が休みの前に行きます。
はじめて子供を抱いてみるも、なにもかも小さくてどのように抱いてあげるのかも戸惑い怖くて仕方なかったようです。(弟とか姪っ子が生まれたときは平気だったんですが)すこし成長してくるとお風呂にいれたりおむつの取替や授乳などできる事はやったつもりですが、おかあさんはほんと 大変だなぁって思います。
このようなシーンの写真はあるんですが、ほんとに母子共に健康でよかったと感じてます。
寝てるのをずっと眺めて起きないかなぁと思ってたくらいです。
起こしたら、嫁に無茶苦茶怒られますので。
お風呂も自分とは作りがちがう部分もあるのでどうやって 洗ってあげたらいいのかわからず、嫁にいつも援軍をたのみます。自分たちが食事するときも 交代制になります。
生まれてひと月後に、お宮参りとかイベントもあるのですがそのたびに 慌て、子供の様子がいつもと違うと思うと 騒ぎ立てるという感じでした。母親はその間 なんかどっしり構えてる感が伝わってきました。
とにかく、子供は成長も早くて 言葉というか言う事も思いがけない事を言ったり 行動するので、もうかわいくて 仕方なかったです。特によくしゃべるし 人なつっこいから親戚の人達もほんと かわいがってくれてました。
21歳の時に生まれて27歳の時には小学校入学ですから 20代の時に一番かわいい時をいっしょにすごせたのは今迄の中で僕の一番幸せだった時です。
どこに行くにも大きな荷物を持っていかないとダメになりましたが
今思うとあっという間に時が流れた感じです。当時は毎日大変だったけど
家族の助けがあってこそ、乗り切れました。
 保育園にお迎えに行くも、「おにいちゃんが来た」と間違えられ 子供の運動会などは若いからと優先に選ばれて 走らされ よその子を抱いてまで出場してました。
結局、ひとりっ子になりましたが 男の子も欲しいなと思ってました。嫁の兄の末っ子が男の子でかわいくてほんとに欲しいと思ってまして 努力したのですが実らなかったです。小学生になって 少しするとなんか離れていくんですよね。大きくなってもかわいいのには変わりないんですけど 幼少の時のかわいさは限りないです。
絵を描いてて、この部分だけがなんか懐かしくて印象に残ってるシーンです。
耳の中に指をつっこんだりして離れませんでした。
子供の好きなおもちゃでトミーかタカラ(今はトミータカラになったのかな)かどっちかわからないけど「せんせい」という磁石のペン先でスクリーンに描いて、レバーを動かすと消えるというものが あったのですが、いつもこれで絵を描いて遊んでました。使いすぎて1台目はスクリーンとペンの交換部品を購入。本体もダメになったので、新しく買い換えてあげてます。あと、ファミコンを子供が生まれる前からもってたのでディスクシステムとかも購入してましたが、子供が大きくなると遊ぶようになったので使ってましたが、これもアンテナ端子と繋ぐ部品がこわれたので数回買ってます。
ゲームとか子供は覚えるのが早くて、僕はもうついていけませんでした。ゲームボーイも買ってあげたんですけど なんか「ロックマン」というゲームを夢中でやってたみたいです(このときはもう小学生ですけど)説明してくれるけど うわの空で聞いてました。最後に買ってあげたのは「NINTENDO64」だったと思います。好きなものは、仮面ライダーブラックのこうたろうさんとニコニコぷんのジャジャマルに、アンパンマンだったと思います。ジャジャマルのぬいぐるみを持ってないと眠らないというような時期がありました。

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2018/04/06

1963年生まれ21歳新婚の時の事

結婚式はお金がないから しなくてもいい。そのお金があるなら他に使うとか言っててその言葉に甘えてただ、真面目に仕事をして生活できるように給与を持って帰るのが僕の使命だと 思ってたけど さすがに指輪だけは買いました。
この頃の事は なぜか記憶が曖昧な事が多いんです。

そのまえに 金融業で働いてる時に、乗っていた軽自動車が時期に車検がくるということもあったし嫁の車もあってそれは たぶん売ったんだろうけど(よくは知らない)自分の車は下取りに出して、近藤真彦がCMしてた新型の車種、ニッサンマーチG1というのを買ってます。(マッチのマーチというキャッチコピー)もちろんローンですけど。
※ マーチのGというグレードが 定番だったのですが G1はスポーツタイプということで 5速ミッションでサンルーフ(手動で暑くて最初だけしか使ってない)付。エアコンもついてましたが 排気量が1000ccという事もあってか 音ばかり大きくあまり効かない感じでした。色が黒というのも関係あるかもしれません。

この車が納車されて、初めての休みの前の日に、はじめて嫁の実家に泊まりにいって夜中に 何者かにドアやドアのうしろのボディに蹴りをいれられ 凹んでます。
誰がやったのかわからず終いでした。とりあえずニッサンの販売店で
へこんだところを たたき出してもらいました。

かなり ショックな出来事でした。なんか一変に愛着がなくなった感がすごかったです。
そして、市営住宅にはエアコンがなかったので 夏の暑くて家で眠れない時は よくこの車でエアコンをMAXに稼働させ嫁と涼んでいました。
ボーナスをもらったときに やっと寝る部屋にだけ窓用のエアコンをつけます。これで 夜もぐっすり眠られるようになりましたが 動作のオンオフの時に 窓ガラスが反響して音がびっくりする時もありました。
取付は自分で出来るので、壁につけるエアコンよりかなり安く買えたのですが
あるとなしとでは全然違いました。
市営住宅は 新築ではいれたから 最初にテレビのアンテナ、浴槽 風呂釜、網戸などはついてないから 入居してから各々が買いそろえなければいけません。中古の物件だと 網戸とか残ってる場合があるのですけど、それで 窓を開けたら田舎だから 蚊や色々な虫がはいってくるので 開けれませんでした。
夏場は かなり暑いです。

そのうち どうやら、妊娠も確認されたようで ちょくちょく 嫁が実家に帰るようになり 新しい会社の研修でしばらく家をあけたいたときに ぶつけられたかぶつけたかで 車は修理されましたが、のちに保険金がはいってきて そのお金で必要なものを揃えました。エアコンとか大きい冷蔵庫、電子レンジなど。
マーチは、修理されたものの傷だらけの車になりました。

給与は全部、嫁に渡してました。 おこずかいって形で過ごしていました。そのとき 自分の欲しかったものっていえば、ステレオ類なんですけど 何年もかけて じわじわと揃えていきます。たぶん定価では100万ちかくかかったと思います。
こだわりのステレオが、アンプはSANSUI。カセットデッキはソニー、CDプレーヤーはデンオン(現DENON)スピーカーはダイヤトーン。ラジオチューナーはケンウッドがよかったのですが、ソニーのものを おこずかいをためてたりして揃えていきました。


仕事は3交代勤務でしたので 昼間家で寝てることもあるのでその間 嫁は息をひそめていたのではないかと思います。でも、食事の用意や家事はちゃんとやってくれてましたし 弁当も何年間も毎日作ってくれてました。弁当は 学生時代作ってもらったことがなくて(給食や学食を利用してたから)そのときは ほんとにうれしくて 感謝の気持ちでいっぱいでした。ありがとうって言っとけばよかった。
料理はあまり得意じゃないと思います。 料理対決をしてましたから。

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2018/04/05

1963年生まれ20歳まさかの展開


一人暮らしをはじめたアパートは木造のかなり古い家屋でしたが、家賃が安いのとなんとなくその場所が気に入ったからでした。でも、仕事をなにか見つけないといけないわけですが その間に彼女との別れも訪れました。無職であった身 そんなに遊びにも行けないし デート費用とかは結構 出してくれてたけど、自分もそれでは申し訳ないので ある日の夜、 休みで遊びに来てた彼女にそれらしき話をしたと思うんですけど 怒って飛び出して帰っていきました。
いつもとなんか様子が違うのがわかったので 自分も車であとを 追ったのですが、それが悪かったのか、猛スピードで走行してました。結局 ゆるいカーブで曲がりきれず ガードレールに激突してしまいます。幸い ケガはなかったのですが 車はダメになったようです。
ほんと 怪我をしなくてよかったって思いました。
それ以降、だんだん距離を置かれるようになったし、自分も距離を置いてたのかもしれません。そうこうしてるうちに、仕事を探さないと生活できないようになるので 職業安定所(現ハローワーク)や、求人広告などで探してました。
スーパーで最後に働いてた店舗で夜、一緒に遊んでた子がいきなりアパートにやってきて あたしも仕事やめたとか言ってきました。

それから ちょくちょくやってきては、食事を作ってくれたりしてたんですけど
僕も仕事が見つかりそうになって 面接の時に福岡市まで(車で2時間ほどかかる)行かないといけないかったのですが 職場は家の近くに配属されるようになってた。その時もその子は着いてきました。というか一緒に行ってくれました。1ヶ月休んだだけで仕事が決まり働き始めるようになりましたけど、その子がいつのまにか帰らなくなってきて ある日 そこの親から家に呼び出されます。
呼ばれた理由は知らなかったけど、うすうすなにかを感じ取ってた気がします。
仕事ははじめたばかりでしたので 生活するのがやっとって感じでしたが ふたりならなんとかやっていけるのではないかとそして、電話とか必要なものは揃えてやるなど 言われた記憶があります。そう、結婚しろということでした。
まさかの展開です。結婚は実は早くしたいとは 思っていましたがこんなに早くなるとは 思ってもいませんでしたし、普通なら正装して ちゃんと生活できる基盤が出来てから ご両親に挨拶に伺うというのが当たり前というか常識だと考えておりました。まだ 考え方とか幼かったのです。
ただ、これで責任も大きくなってしまいましたし 遊ぶこともしらずに若い時をすごす事になります。その時はそれでよかったんです。なにより いつも自分の事をわかってくれて味方してくれる人がそばにいるということが。

アパートは手狭でしたので、市営住宅にはいる事になりました。
結婚式はしなかったのですが、親から写真だけでも費用は出すからといわれてましたが 延び延びなって結局しなかったのです。なので、20歳で結婚した事になります。


新しい仕事は、土曜日は半日でおわり、日曜祭日は休みでした。そのかわり平日は 長めの8時から21時まで外回りしてという金融業の仕事です。
この仕事短かったけど、色々な面でかなり社会勉強になりました。
給与も結構よかったので 自分が働けば ふたり生活はできてました。職場はとても居心地のいい環境でしたけど 仕事内容が貸したお金の集金なので、嫌な時もありました。中学の同級生の家だったり、知ってる人だった場合です。激しい取り立てをするような会社じゃなかったのですが、借りたお客は家族に内緒だったりするわけで、それが悟られないように集金に行かなくてはなりません。偽名を使ったりとか結構、工夫のいる仕事でした。しかし、法律の改正があったと思うですけど、業務を縮小することになって、先輩達は 関連のところに飛ばされるか 希望退職するとか半年目にその決断が迫られました。僕は はいって間もないし、集金もよくこなしてましたから そのまま続けることはできたんですけど、高校の時の友達からちょうど連絡があって 今度地元に新しい工場ができるので一緒に働かないかと誘われました。

はっきりいって、借金の集金の仕事はなんかうしろめたいところもあって、嫁の親には詳しい仕事内容は話せなかったです。工場なら堂々といえると思いました。
ちょうど 仕事もきれずに変われそうなので、その話にのります。金融業の会社は人員を減らしたい事情だったので やめる時もスムーズにやめれました。

2018/04/04

1963年生まれ19歳~20歳スーパーの店員だったとき(その2)


この店舗は、4階までフロアーがあって 1階は食品と日用品にサービスカウンターがあって上は洋服や、家電 寝具など売ってましたけど 4階は半分は 事務所で残りはテナントがはいってて 軽食やゲームコーナー レコード店がありました。
レコードは、この会社に入る前からよく買ってたのですが、社員になるとちょっと割引とかポスターくれたりしてました。
そして、広島で買おう思ってたけど 持って帰るのが荷物になるので帰ってきてから買ったのが サザンオールスターズの「ヌードマン」というLPレコードです。
逆にいうと 最後に買ったレコードにもなりました。CDの時代がやってきましたから。


レコードを休み時間に買って、事務所にあるロッカーに入れていてもいいのですが 副店長がちょうど事務所にいたようなので、1階のサービスカウンターにいって 預かってもらう事にしました。サービスカウンターの女の人は かなりきれいなおねえさんですが、日頃、放送で呼び出しをされてますから よく話しはしたことあるんですけど レコードを預かる代わりに条件を出されます。
カセットテープに録音してって日常的に行われてました。
トイレに行くときに代わりにサービスカウンターの留守番させられる頃も増えました。
自分にもカセットテープに録音してきてという事だったんですが、それくらいおやすいご用です。でも、これがはじまりになりました。
 知ってる限り、「山下久美子」とか「原田知世」が好きだったみたいですけど。
このおねえさんは短大卒の2つ年上の人でした。サービスカウンターに配属される子は容姿も重視されるそうで お客さんからも花束をもらったりしてました。まぁ 自分とは遠い人だとは思ってました。
しかし、テープを録音してあげてから 話もよくするようになり バス通勤してきてたのですが、僕の家とは全然方向が違うにもかかわらず 送って帰ったりするようになります。
彼女の家もかなり田舎で10km以上は職場からはなれていたと思います。
 そして、休みの日は交代制でしたが 職種が違うので 同じ日に休みにする事も増えてきます。
あちこち、近場のいけるところは 行って そして色々な話をしたり聞いたり 食事したり 楽しい時間を過ごせました。


そのうち、その噂も広がりつつあった時に帰ってきて3ヶ月後、リニューアルした店舗に転勤させられます。
この店は比較的、新人もいて同年代の子もいましたので 前の店よりは過ごしやすかったです。しかし 新人といっても先にこの店に配属になってるので 先輩という事になりますので、そこは仕方ないでしょう。
とりあえず、寮にはいらないと自宅から通勤は出来ないことはないでしょうがやはり遠すぎます。
寮は、前の店の寮よりは広いのですが、異形の間取りになってて みんなで共同の部屋です。10人以上いたと思うんですけど、壁に組み込まれた2段ベッドで 1人ずつ割り当てられました。 後からきた僕には、ベッドの割り当てがなく部屋のど真ん中に布団を敷いて寝てました。
これ 思い出すとよく辛抱してたなと思います。四六時中気を使ってた気がします。
ベッドにはカーテンがあって中は覗いたことないんですけどテレビとか置いてる先輩もいたので棚とかあるんだと思います。自分の場合はプライバシーもなにもあったもんじゃありませんでした。
ひとり、自分と同級かひとつ下の子がいたのですが、よく外に食事とかいってましたし、食堂で時間つぶしたりしてました。
寮生活で、洗濯物と風呂が結構大変だったんですけど、
まず、洗濯の決まりは 他人の洗濯物を触ってはいけない。つまり 洗濯が終わって洗濯機に残ってる場合は、それを取り出して自分の洗濯をしてはいけないということ。と先輩が後輩に洗濯をさせたりしてはいけないということだったんだと思います。
お風呂は 前の店同様ひとり用の小さい浴槽があるものでしたが、風呂にはいる順番が年上の人(先輩)からという事になります。
なので 下っ端は遅い時間にしか入れなかったです。12時ごろとか、あまりに遅いと今日は風呂入るのやめようとかなってしまう事もありましたが、最悪 あの狭いお風呂に前出の彼と一緒にはいってました。


そして、問題は この店舗には 前の店舗にもいたけど 上層部の身内がまたいました。あの副店長と同じ苗字です。こっちはまだ若いたぶん 自分より数個上だと思います。
顔は 前の店舗にいた時にもみたことあったんですが、実は彼は寮生ではありません。たいがい男性の独身は寮生なのですけど 車も高級セダンに乗ってました。
うすうす知ってはいましたが、僕の付き合ってた彼女に言いよった事があったみたいで相手にされずにいた様でした。
彼女に聞いてみると、なんか嫌いなタイプだったそうで断ってた様です。
僕が付き合ってるという事知ったのでしょう、嫌がらせがはじまります。
なにげに 自分だけじゃなく他の関係ない人にも迷惑をかけていたんだなぁと
この絵を描いてて思いました。とばっちりですよね。
寮生でもないのに、洗濯を持ってきて洗濯をし、次の日まで取りにこないとか、風呂が年齢的に自分たちより先に入れるので 風呂にはいって行くんですが その分遅くなりますし、まぁたいしたことでも ないように思えますけど、浴槽のお湯を足首がつかる程度まで減らして行くということです。
シャワーとかついてないので 水をためて沸かさないといけません。
裸になって 風呂入ろうと 行ったらその状態なので また服を着て水をため、わかすか、もう諦めて はいらないかになってました。こういうことがだんだん増えてきます。
寮長にも話したことがあるんですけど たぶんなにもしてくれてないと思います。


車の駐車場も出にくく止められたりしてましたし、僕の車がでれないように止めて自分の車を置いて帰ったりされてました。しばらくしてから 彼にはちょっと派手な衣料品売り場の彼女ができたのでその嫌がらせは無くなってきましたが、1年半以上その店にいたけど唯一 話をしたことのない社員でした。


このころ、仕事終わって寮に帰って食事とかして寮生の各々の人は自分のベッドがある空間で本を読んだりテレビをみてたりして過ごしてましたが 僕にはそんなスペースはありません。
だんだんと、街をうろうろしたり 車であちこち行ってみたりしてました。レジの女の子で、やはり2つ年上でしたが話の合う子がいて、ばあちゃんの家の近くに住んでいて、叔母のことも知ってるという子がいたんですが、なんどか 一緒に遊びに行ったりをはじめます。世間では二股というのかもしれないですけど、そんな感じではないつもりでした。
ある日、山の上にある湖を見に行こうという事になって、自分の車をふもとに置いて その子の車で行ったんですが、時間も遅くなり戻ってくると、自分の車のドアロックが空いてました。
たしかにロックはしていったはずだったんですけど 中は荒らされた様子もなく乗り込んでみると あれ?フロントガラスにくっつけてた 彼女の作った手作りの僕の人形がない。吸盤は残ってましたが切った糸は残ってました。そして車検証の入れてあるグローブボックスとかみてみると 前日テナントのカメラ屋さんで、発売されたばかりのキャノンオートボーイ2というカメラがなくなっていました。まだ フィルムもいれてなく写したこともない新品です。見渡してみると カセットテープとかもなくなっています。そしてなんに使うのか 僕がその日彼女からもらったばかりの手紙までもなくなっていました。
そう、車上荒らしにあったのです。本来ならカーコンポとかハンドルやタイヤが持っていかれるはずなのですが、被害は盗まれたものと 助手席の鍵穴がなにかで壊されて使えなくなってました。
警察に行っても無駄でした。連絡さえもありませんでした。
カメラはカラシャッターをやっただけで幻のカメラになりました。
一応、警察に届けたけど 盗まれたものの相場価格を書けといわれましたが 価格のつけようのないものがあったので困りました。
車の鍵の修理はそこだけ交換したため(1本のキーで済まそうと思ってましたがかなり修理が高額になるとの事)それ以降助手席専用の鍵がふえて 2本持ち回ることになります。
これは、浮気の天罰だと考えてました。

1984年、成人式だったのですが 通常用事があって休むときは前もって言っておけば それを考慮して交代休みを決めてくれてたんですが、当然 前もって申告はしときました。
しかし1月15日は 成人の日で祝日という事もあって店のほうも 結構忙しかったです。そうです成人式には行けなかったのです。休みがもらえなかったというのが正解ですが、申告して事務所のホワイトボードには書いたはずの文字がなくなっていました。
どれだけ我慢すればいいのかと葛藤してましたが、前月にもらったボーナスを全部つぎ込んで家電売り場とかにいって社員価格で 最低必要なものを揃えました。そして 寮を出て アパートを借り一人暮らしをはじめました。もうこのスーパーで働く事に見切りをつけていましたから先に自分の住める場所を確保してから、もう少しだけ スーパーの寮生として過ごしました。
成人式後、たぶん1月いっぱいで辞めたと思います。
最低ひと月前までにいってもらわないと困るとか 言われましたけど有給でなんとかなりました。

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2018/04/03

1963年生まれ19歳~20歳スーパーの店員だったとき(その1)


入社から、3か月たった年末 女の子数人と広島県に連れて行かれます。駅前のホテルに泊まって今度オープンする店舗の応援に1ヶ月交替で行くようにという話でした。福岡県にも何店舗かあるので各店舗から選んで行くというようなことでした。

よく覚えてないのですが、福岡県から僕ともうひとり男の人と数名の女性が 応援のため広島県のその店舗の寮で生活をはじめました。食堂をはさんで男子寮と女子寮が同じ建物になってます。他の県からも同世代の子がやって来てましたが、たぶん男は自分が一番年下でしょう。女の子は同級はいましたけど。
仕事は オープンという事もあってかなり忙しかったのですがその店舗は、同世代の男性が新しく雇われていたので結構 楽しく過ごせました。ひと月が経過する時、一緒に福岡から来た人達は帰って交替の時期になります。
同室にいた人が 明日帰るようになったからお世話になりました。と言ってきたのですが 自分にはそんな話なにも聞いてません。直に社員旅行があるからその時帰れるみたいだよと言われたので、妻子持ちの人だからと納得してました。
次はどんな人がくるのかなぁと 思って楽しみにしてましたが 来たのは女性だけで、まぁ知ってる人がいたけど男性は来ませんでした。そしてやっと旅行があるということで、九州に一度帰り、フェリーで神戸まで行き 京都などをみてまわり旅行が終わったらまた 広島に行かされます。このときに誰か男性社員が行くのかと思ってたけど ひとりだけでした。

応援3か月目、次も誰もこないと思ってましたから(店も落ち着いてきたから)他の県のから来た人やその店舗の同世代の子とも仲良くやってたので、このままここにいたほうがいいなと思うようになってましたけど、送別会をしてもらい帰る事になりました。この店では、一度サラダ油を台車ごとひっくり返すという粗相を犯しましたが、それがきっかけで掃除のおばちゃん達にもかわいがられるようになります。サラダ油は当時、ガラスの一升ビンにはいったものでした。
実際はもっとたくさんのサラダ油でした。フロアー一面油まみれになり
掃除のおばちゃんたちが おがくずを一斉にまいて 処理してくれました。
そうじのおばちゃん達いわく、「他の男の社員達は私たちにあいさつも話しかけてもくれない。あんただけ気さくに声をかけてくれるんじゃ」と。それまで、普通にあいさつしてたけど他のやつはそうだったのかぁってはじめてしりました。たぶん見下してるんだろうなぁと。


広島の店舗にいって初仕事がはっきり覚えているけど、店頭にいるとき 買い物に来たお客さんから「おとしがみ どこにある?」と聞かれたことです。おとしがみという品物を自分の知ってる商品とは一致しません。ちょうど 正月前だったので おそらくお年玉をいれる袋(ポチ袋)だと認識し自分の頭の中にはいってる文具売り場のあそこだと 思いお客さんを案内します。こちらでございます。まではよかったんですが お客さんの不思議そうな顔。こいつなにいってるんだみたいな雰囲気になって ちょうど 文具売場の担当のパートのおばちゃんがきたのでおとしがみがいるらしいんですけどというと、日用品の雑貨売場に連れて行かれました。おとしがみ=ちり紙だったのです。子供の頃は、自分の家でも使ってましたけど 「ちりし」って言ってたから 広島ではこういう言い方をするんだと思いました。それから方言というか 言葉も勉強しないといけないなと 手帳に書いてた記憶があります。「たいぎぃ」とか大分から応援に来てた人が使ってた「よだきぃ」が同じ意味をもつ言葉だと知ります。

九州に帰ってきてから、3ヶ月、最初の店舗に戻りますが 少し仕事にも慣れてきてました。
また あの副店長がいる店です。まずは 髪型を注意されました。パーマを刈り上げと まだあまり流行ってない髪型をしてたからと思うんですが 面倒なので一気に5枚刈りの丸坊主にして出勤しました。
寒いので出たりはいったりしますがかなり寒かった。

最初は、みんな驚いていましたが、副店長がお客さんからの見た目が悪いと、売り場には出てこないように 裏のストックヤードで値札をつけたり パック詰の仕事を命じられます。
しかし、お客さんが混んでくると、レジのカゴの整理とかしないといけないときは 放送で呼ばれてました。そして 正式な決まりではなかったのですが 男性社員は ネクタイをつけ 革靴をはくみたいな事になっていたのですが、ネクタイは問題ないのですが、革靴は ストックヤードや レジのカゴの片付けなどするには 滑るし動きにくいので スニーカーを履いてました。
そこを また 注意されましたが、派手な靴でもなかったし 広島でも別に問題なかったのでみんなの前で 主張するとみんなも賛同してくれてスニーカーを履いてる男性社員も のちに増えてきました。
この仕事は結構 大変です。高く積み過ぎるとお客さんが取れないし。
あとショッピングカートもあちこちに散らばってました。
しかし、再び僕は入院する事になります。交通事故以来の入院ですが 病んでたのでしょう。食欲もなく栄養失調と診断されました。点滴で1日で回復した感じだったのですが1週間入院しました。
急に 腹痛がはじまったのですが 病院に行くと即入院になりました。
その後、体調管理が出来てないとか色々 いわれ 事務所横の寮に入れらされたのですが、寮というよりちょっと大きめの部屋に数人が寝れるだけみたいなとこでした。風呂もひとり用の小さい浴槽が設置されています。外出して夜 遅くなると警備会社に連絡しないといけないので、そういうときは家に帰ってました。(続く)