2018/04/02

1963年生まれ18歳出直しから再就職


春に就職したばかりの会社を6月に退職し、期待を持って上京したはずだった東京をあとに 九州に戻る事となったわけですが
6月、近畿にいる兄が結婚式をあげるということで東京の帰り、結婚式まで また兄のところでお世話になります。

結婚式の準備とか、色々と雑用を任されるのですが主に 人の送り迎え(免許とってたので)とか 兵庫県から大阪まで結婚式のケーキとか取りに行かされました。はじめて長距離の高速道路を走りました。
大阪では、東京にいるときに交通量の多いところを運転してたので変わらないかなと思ってたのですが、マナーの違いを体感します。大阪は 譲りませんでした。遠慮してたらダメみたいな感じでした。

結婚式が終わり、九州から親や姉達来てたので一緒に連れて帰られるのですが 実は、兄の近くで飲食店をやらないかと話が出てて やる気満々だったけど 親の猛反対で帰ります。

おそらく、7月までには九州に戻ってきています。
それから新しい仕事が見つかるまで、就職活動も大切ですが毎日活動してるわけじゃないので、高校生の時にバイトしてたレストランでバイトさせてもらいます。ちょっと顔ぶれが変わってはいましたが、時間も昼間から夜まで働けたのでそれなりに給与はありました。高校の担任だった先生とも会ったりしたのですが、知り合いの人に親も就職先を頼んでいたりしてたので 地元では有名な大型のショッピングセンターの会社の面接を受けます。
北九州市を中心に、宮崎県、大分県、山口県、広島県に大小兼ねて店舗を有する会社です。
面接は、受けはしましたが いわゆる「コネ」なので はいることができました。
そのかわり、女性は男の数倍いるところでおそらく 学歴とか関係なく就職できたのでしょうが 男の場合は、大卒しかとらないんだけどねぇとは 言われました。

9月から勤務をはじめたと思います。じきに19歳になります(1982年)
本体価格77万だったかなぁと記憶してるんですが、欲しかったです。
一気に人気が出て 町中よく走ってるのを見かけます。ホンダシティ(現FITの元祖になるのかな)
自宅から、勤務先まで10kmくらいの距離でしたが田舎なので バスや電車の本数も少なく困るのでまた、姉の嫁ぎ先の自動車工場に、安いやつでいいからと車を頼んで買いました。数万だったと思うのですが、360ccのホンダライフのカスタム車で全塗装とか施してあってかっこよかったのです
出勤する前日に届いて、初出勤の日 緊張しながら運転してましたが 職場近くの橋の上でエンジンがとまってしまい動くことが出来なくなりました。
遅刻するわけにはいかないので 車は押して路肩にとめ 自動車工場に引取に来てもらうよう連絡し歩いて職場に行きました。
この車は、それ以降一度も見たことないですけど タイミングベルトが切れたそうです。
返品したようです。それから、一大決心をして新車を買うことにします。
とはいっても お金はそんなにないからローンで。その数年前にスズキからアルト47万円というCMでその手の車が何種かありましたので、ダイハツのミラというものを選びました。価格もアルトより少し高かったようです。50万ちょっと。
1日限りでおさらばとなったライフ。ちょっとゆがんでますがこんな感じ。
ミラはイラスト描いたあとに実物の写真が見つかりましたので貼り付けました。上が買ったばかりの時だと思います。下はアルミホイールやちょっと手を加えてますので、一年経過くらいしてたと思います。
ほんとは ホンダシティが欲しくてそれに決めてましたが、当時、そのスタイルは奇抜であった事 価格がやはり100万近くいったことなどで まわりから反対され 形的にミラもシティに似てるからそれにしたんだと思います。

今迄、何枚か絵を描いて服とか青系統の着色が多いなと気付いた人もいるかもしれませんが、基本的に青が好きだったので車も青を選びました。
買った軽自動車は、その当時550ccの排気量で4人乗りですが 後の席は気持ち程度のシートがついてるだけで、貨物車になります。なので税金も安くて通勤とか買い物に使うとかなら 充分でしたのでアルトもミラも4ナンバーの車があふれんばかりに 走ってました。三菱からもミニカエコノ、ホンダはなかったと思います。
それと、ドアミラーが解禁されたので 最初はフェンダーミラーでしたがあとで つけかえました。もちろんエアコンはオプションだったのでありません。(よく言われたのは暖房はどの車でも装備されてます)
360ccの軽自動車も、まだたくさん走ってる時代でした。
納車までは、バス通勤してましたけど、帰りに何度寝て乗り過ごしたか覚えてません。本数が少ないから乗り過ごして戻るのも大変でした。車のありがたみを感じます。ちなみにバイクという選択肢もあったのですが、おそらく高校の時の事故の事があったので家族はバイクにしろとは言わなかったのでしょう。

仕事は、当時グループ店舗の中で一番お客さんが多いといわれてた所の食料品売場になりました。食料品といっても 乾物やお菓子はまた 別の担当になってましたが 僕は とうふとか練製品冷凍食品など 日持ちのしない食料品の担当でした。たまごもそうです。肉や魚、野菜はテナントがはいってましたので関係ないです。
朝、他の社員よりはやく出勤して開店前に 商品を棚に補充しないといけません。特に漬物やとうふなどは朝が早いので7時前にはもう 売場にいなければいけませんでした。
開店すると、パートのおばちゃんもいたので 比較的ゆっくりあります。商品が減ってきたら補充したり 陳列棚の商品を手前に取れやすくしたり。しかし、担当以外全社員共通の仕事がお客さんが混んできたらレジにお客さんがつまりはじめます。
レジは10台あったのですが、ちょくちょく詰まることがありました。
そのときに、真っ先に放送で呼ばれるのがレジカゴを集めて入口付近に持っていかないといけません。
レジの子は暇なときは やってますがお客さんを待たせないが 第一ですから 混んでるときは男性社員もレジに行き レジの女の子の横に行って袋にいれてあげます。
この店は、西日本で初のポスレジを
投入したばかりでして、従来の値段の書いたシールはバーコードのシールにはりかえ、まだ一部の商品にしかメーカーのバーコードはついてなかったときです。余計にいそがしかったのかもしれません。

クソガキ ほんと何するかわからないけど しかし、怒れません。
そして、僕の仕事は駐車場が混んでくると専属の人がいたんですけど 間に合わないのでこれも放送で呼ばれ応援にいきます。一番下っ端だったから仕方ないですが、イベントの時は着ぐるみきて 風船配りや あるときは本物のにわとりを抱いて たまごの店頭販売もさせられました。普段よりすこし売上が多くなったらしいですけど、そんなによくなかったのでしょう。一回きりでしたから。
もの珍しさに集客できたらしいですけど、うみたてってのぼり ウソやんって思ってました。
にわとり、こんなにおとなしく抱かれてません。つつかれたりかまれたり傷だらけになりました。
着ぐるみでいわせてもらうと、身長は大きいほうなので 着たのはドクタースランプのアラレちゃんでしたけど、まずサイズが短いのと 作りがチープなので子供の視線からはアラレちゃんの顔の下から中に入ってる人の顔が見えるというものでした。
おなかに クッションの紐付きをつけてジャージに着替えはいりましたが ズボンはみじかいし なによりも暑いのと 子供が中に入ってるの下からみて「男やん」とかいいながら蹴ったり、股間を握ったりします。親がたいがい 近くにいるので怒ることもできず、まぁ我慢するしかない状態でした。チープな作りのおかげで風通しはいいのかもしれませんが、それでも暑かったので 今頃イベント会場とか着ぐるみにはいってる人達の仕事は大変だろうなと思います。

お客さんが、混んでる時に男性社員もほぼレジに来て応援すると書きましたが、ある日フロアー長でもある副店長から言われた事は今でも忘れられないのですけど、担当の商品が品薄でストックヤードにいけばあるので 持ってきて並べてるときに いつものように放送で応援に行くように言われ 男性社員もいってたようなのですが、商品をならべていたので行くのが遅くなり、行った途端、お客さんもいるのに「高卒のくせに…」聞こえなかったけど言われました。レジの女の子も一瞬 びっくりしてましたが混雑してるので仕事を続けます。
実は、この会社の上層部の大半はみんな身内なのですが その副店長もそうです。なので逆らうことは誰もしない。僕を入れてくれた人は身内ではなかった人なので気がつきませんでしたが、そのような話をパートのおばちゃんから聞いてました。
食堂のおばちゃんに、よく合ったことを聞いてもらってたんですけど、そのことを言うと「まぁそんなこと言うたと?でも、仕事ができるようになるまで我慢しなさい」と言われました。

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