2018/04/20

1963年生まれ30歳の年大きな出来事がありましたですその1


大工さんの仕事を始めて、年数が経過し養成工の時代も終わりの頃(29歳くらいです。)れんがの加工場に 外から臨時の職人がはいってきました。
そのなかに 僕の師匠になる親分のおとうと弟子という人がいました。親分よりちょっと年下で僕より10歳くらい上の人ですが この人はれんが職人として日本中をまわって仕事をしてる人でした。あとでわかりますが 喜怒哀楽の差が激しい人なんですけど 普段はとても優しくいい人です。
兄弟子である親分の言うことは、絶対でまず反抗することはありません。

よく聞かされた 親分や師匠が黒いものを「白い」といえば、それは「白」なんだと言われてました。ただし、心の中はわかりませんけど。
その人が外の仕事の事を色々、親分に話してるうちに 親分も自分の面倒みてきた(僕も含む)者の事も考えて 独立して事業を始める。そういう事になってきたようです。

計画とか時間がかかったと 思いますし そばにいてその話を聞いてる事もありました。
そして、決心も固まった頃 親分を慕っていた者数名も一緒に会社を辞めていくような事になって言ったんですが、会社も困るので そこはおそらく会社の仕事が間に合わないときは 優先的に手伝うような事を会社と話したんだと思います。
当然、僕も一緒に辞めると廻りの人は思ってたに違いありません。
親分に相談します。本人もまさかついてこないとは思ってなかったけど 一緒にやめるのは会社にとっても まして年が明けたばかりの自分は非力すぎで もう少しここで仕事を続ければ、かわいがってた者ひとりでも残せば、会社も納得するんではないかとそんな話をしたと思います。人質みたいな感じなんですけどそれで、会社も快く親分達を送り出す事にしたようです。
ということで、残りました。親分は辞めてからも会社の仕事の手伝いに何度も来てましたから疎遠になったわけでもなく 自分も休みの日とか親分の会社に顔を出してました。
しかし、辞めていってからは 大きな仕事が来たときはもうひとりでこなさなければいけませんし、親分の否定派だった職人も何人もいますから 風当たりもよくありません。
ただ、それまでは僕を下っ端養成工扱いしてた人達が すこし態度が変わったのも明らかでした。れんが加工するための大工仕事を頼まないといけないからです。

この会社で自分ひとりでやった大きな仕事はひとつだけ 印象に残ってるものがあります。溶解炉の炉床の木枠をつくるとき 通常はえぐれた球面ばかりでしたが やった仕事は球面の盛り上がった部分で外側の図面を渡されました。
杉材とコンパネで作ります。
釘打ちがたいへんなので 臨時の人を借りて仕上げました。
木材で球面をつくるには 完全には出来ませんが1週間考え構想を練りました。直径は4,5mくらいだったと思います。
制作にはひと月ほどかかりましたけど、検査にも一発でとおり なんか自信もついてきました。写真があればよかったんですけどないです。
しかし、一生懸命つくった木枠は 仮組みが終われば解体される運命なので壊すときはいつも切なくなります。

親分達が去ってから、1年が過ぎた頃 会社の中で毎年ある昇給の話し合いで 何日もかけて時給換算で10円UPとかで時間を取られて過ごす時間や親分の否定派の嫌みなど なんだかうんざりするようになって来ました。
あと、粉塵の事も気になってたんですけど、レントゲンを撮ってみたときに 塵肺の検査ですこし肺に影があると診断された事もあります。
この頃から、粉塵にたいして過敏になるようになったかもしれません。
目は、よくものもらいのように腫れ上がることも多くなり、病院にいくと 毛穴に粉塵らしきものが詰まっているとか診断され、なんどかメスで切ってもらっています。あとは腰痛ですね。
健康診断でひっかかって 再検査したけど数値が少し悪かったです。
今は異常なしになってますが、続けてたら悪化したかもしれません。
目のほうは未だに年一度くらい ものもらいのような感じになります。

仕事は、普通にこなしていたんですが(出張も行ってました)なんか もっと自分にできる事ないのかと思うようになります。

その頃 親分の会社は大きな仕事をかかえていて、人員不足で工期が間に合わないような話を耳にします。
親分の弟弟子が、責任者(棒心)で現場(千葉県)に行ってるのは 知ってました。
その中には、僕の知ってる職人さんや 大学生の時に親分のところでアルバイトしてた子(親分の会社に就職した)も 知ってる子でしたので 現場で苦労してる事を聞きます。
親分の会社に僕が 行かない事は1年前に決めてたんですが、ちょうど 会社にたいしてのうんざり感なんかも重なって やめてから とりあえず親分のところの仕事に加勢に行き、それから新しい道をさがせばいいと思うようになりました。

やめて すぐに加勢に行けば 会社との関係もあるので、少しの間、行かずに スターレットを売りはらい へんな車を買って パンの移動販売をはじめました。
パンの販売は 店舗に朝 必要と思われる量を取りにいって 日中に あちこちまわり 買ってもらうという 自由な仕事です。固定客がつけば 配達のような形になるのですが ほとんど飛び込みで売ってました。
当時は、まだ若かったので買ってくれてたでしょうけど
今、おっさんが行っても買ってくれる人は少ないと思います。
にんじん食パンは 人気の商品でした。
昼過ぎには、全部売れてなくなってましたので、量を増やしたら 売り切れない事もありますので 夜遅くなったりします。郊外に住んでる人や 年配の方なんかよく買ってくれました。ただ、収入が安定しないのが 不安でもありました。

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