2018/04/12

1963年生まれ20代後半頃 昭和から平成に変わった頃です。

この頃、子供も保育園に行くようになって同級生のおかあさん達と交流が多くなってきました。
保育園の初日 はじめて行って帰ってきた娘は ひっかき傷をたくさん作って帰ってきました。仕事から帰って 嫁に聞くと同じクラスの子とケンカしたらしく 迎えに行ったときに相手のおかあさんに 謝ったそうです。
だいぶやられたなぁと思ってましたが、相手の子のほうがもっと傷だらけだったそうです。原因は、トイレのドアを開けたとかそんなことだったのですが…
保育園に行くまでは、結構悪かったのですが 行きだして少し女の子らしくなりましたが、男の子に生まれたかったという娘は ずっとスカートを拒否します。なので小学校まではスカートをはかない女の子でした。
おかあさん達どおし 地元の人が多かったので中学までは一緒だったとかで仲良しみたいでしたし、嫁も地元ですから知り合いばかりです。
そのうちに ママさんバレーのチームを作るという事になったらしく 実は元全日本のキャプテンだった人が引退して地元に帰ってきて生活してましたから その人も同じ中学だったので 中学の時のチームメイトを集めてママさんバレーのチームを作っていました。
そして、嫁たちが作るチームメイトは その人達のひとつ下の人がメインでメンバーを集めたという事でした。だから 結構上手な人ばかりで強いチームになるんだろうなと思って話を聞いていくと、コーチはどうやら すでに自分になってました。
まぁ運動不足もあったし、練習も頻繁にあるわけじゃないので引き受けたのですが 練習初日に行ってみて ほんとにバレー部やったん??って人達ばかりで 組み手のやり方とか姿勢などいちからはじめないといけなかったです。
中学生の頃、活躍してるのをTVでみていましたが若干身体が大きくなってましたが
スーパーとかで会うととても感じのいい挨拶をしてくれる人でした。
体育館を借りてやってたのですが、練習時間2時間とかで半コートずつ 他のチームと一緒になってましたが 元全日本のキャプテン率いるチームと一緒になったときに「あの人は今?」みたいな番組のために取材の日に一緒になった事があります。
練習後半、各チームわかれて乱打を行ってそのシーンを撮影することになったらしく、うちのチームは到底相手になれるほど出来ません。アタックを打ってくると一斉にコートから逃げ出したりするのですから。放送された時見たんですけど 司会の人(徳光さん)が「あのアタックにあたれば交通事故にあったみたいなものですね」とか行ってました。実は、うちのチームメイトだけでは到底無理なのでコーチも混ざって下さいと言われたので僕もコートに混ざって入ってました。
引退して数年たってても さすがに全日本とかで活躍されてた人ですがブロックにとんでもかすりもしないし、軽く打ってるように見えるサーブもずっしりと重くてはじかれてしまいました。
ママさんバレーのコーチは30歳までやってました。試合にも行きましたが全敗です。

普段は仕事が17:00きっかりに帰れるのですが、毎日2時間ずつ残業があって、しなくてもいいんですけど 養成工の身、仕事も早く覚えて残業をしていくらかでも給与を稼がないといけません。そのまえに 義母がいるので残業しないと問い詰められます。
なので、ほとんど残業はしてましたから19:00に帰れます。
家に帰ると、1時間弱で帰り着くから帰ったら 夕食とあとは寝るだけでいいのですけど たいがい、嫁は風呂は済ませてますが 子供が「パパとはいる」と言っておかあさんとははいらないらしいので(嫁のウソかもしれん)また お風呂にはいります。小学1年くらいまでは、平気でしたが なんか自分が恥ずかしくなってきて一緒にはいるのはやめました。
座ったり横になると登ってきたり上に乗ったりして小さいときからの癖なのかもしれませんが
耳の穴に指をつっこんだり目をひっぱたりする子でした。
あとは、家に居るときはできる限り遊んであげます。(この時はまだ想像もしてないけどもうあまり残り時間がないです)自転車の時は 補助輪を外してと言われて 最初はうしろを支えて練習してましたが ひとりでどこかに行って練習してきたらしく夕方には乗れるようになってました。鉄棒の逆上がりの練習もひさしぶりに自分もやってみました。そういえば小さいとき 練習したなぁと思い出しながらやってます。
夏休みとかになると 毎年 海水浴にも連れていきましたが 父に似てるのか飽きやすくて一日中海に居たって事はないので助かってます。 スペースワールドは最悪でした。並ばないと何にも乗れないので 入れるところに入ったら人形劇だけ。弁当を食べに行った様なものでした。
プールに連れて行った記憶がないので、たぶんおかあさんと行ってたんでしょう。
ちなみに おかあさんとパパで呼称してました。おとうさんは似合わないんだと言ってました。
というわけで、収入は少なかったけど残業をして生活できるくらいはなんとかなってました。また、子供も保育園に行き始めたので嫁も パートに出るようになりました。いくらもらってたか知りませんが生活の足しにしてたわけでもなく 自分の化粧品や遊ぶお金に使ってたようです。たぶんの僕の給与では賄えなかったのだと思います。

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