2018/04/16

1963年生まれ僕の30代前その1


煉瓦工の養成工から職種を転向してからというもの 圧倒的に仕事の種類が多いことに気がつきます。外に出ての工事もありますのでたまには 出張とかも存在してました。行くところはそんなに遠くはないんですが 養成工の時代に行った一番遠くは広島のマツダの工場でした。ここではアルミの溶解炉とかもあって、はじめて耐火物の解体工事もしました。
ピックやチッパー、ブレーカー等のエアツールを使うのもはじめてでした。そもそもその工具自体が重いのに身体もフラフラしてます。コツをつかめばいいんですがそれでも体力勝負です。
耐火物にはれんがの他、不定形耐火物というものがあって(コンクリートのようなものです)それは 解体に大変苦労しました。
耐火断熱になると簡単に壊れるのですが表面のものは、一晩中何人もの人がやってもほんの少ししか解体できないという事もありました。ある程度壊れるまでは そんな感じですがあとは 一気に解体できるみたいです。

ブレーカーを一日中使ってると振動が激しいので夕方、仕事が終わって帰るときは手が震えたままでなかなか回復しません。ある日、炉床(床)の解体をしてる時に、当時、アルバというブランドの(たぶんSEIKOのカジュアルブランド)腕時計をいつもしてたんですが、その日時間を見ると文字盤が中ではずれて 回転してました。一緒に行ってたおじさんが、自分が時計屋に持っていって修理を頼んでくるとかいうので、修理代の方がきっと高いと思ってたから断ったんですけど 大丈夫とかいうのでまぁ預けたんですけど、「修理できないから買い換えろ」と言われたとか言って戻ってきました。
それから、しばらくは時計はつけてなかったんですけど、誕生日に嫁が欲しいものがあるかと聞くので、G-SHOCKが欲しいと言ったら、買ってくれました。そのときは まだG-SHOCK自体知名度も低く 黒が主流のG-SHOCKでしたが 青いのがあったのでそれを選びました。
解体作業や測量(レベル出し)など 初めてやる仕事ばかりで毎日楽しかったです。
G-SHOCKは1万ちょっとくらいだったと思います。さすがにタフに出来てました。
ごつくて、たまに足場とかに引っ掛かったりしてたんですが、ブレーカーを使っても大丈夫でしたし 汚れてもゴシゴシ洗ってましたけど長い事、使ってました。機械の部分は電池交換でいけたんですが、ベルトとか本体がぶつけたりこすったりしてたのですり減ってダメになりましたが10年くらいはそれを使ってました。

他に、大工さんになったら 道具の手入れも大事で、日頃から特に刃物類の研ぎとかは横について教えてもらっていましたが、どうしても刃先が丸くなってしまい、教えてくれる大工さんは自分の道具ではないので修正もしてくれません。自分のは自分で管理です。
ノミは、刃の部分が少ないので まだよかったのですが、かんなとなると一日中、研いでました。
かんなの刃の裏とかは、自分の唾を使ってやってましたが枯れてしまいます。
砥石の砥石とかあるのも 初めて知ります。
包丁の研ぎもやってたんですが 刃の部分が長いからやりづらかったです。
横でじっと見られてるとかなり 緊張してやってました。

昼の休憩時間は 1時間あったのですが はじまるとすぐに食卓を用意してお茶をいれ 大工さん数人で弁当を食べてました。煉瓦工の先輩も一緒に来てましたので5人くらいかそれ以上の人数です。食卓は、家具調こたつみたいにきれいなものだったのですが、大工さんが作ったものだったのに驚きます。ひのきで作られたものでニスを塗ってましたから 買ってきたものだとずっと思い込んでいました。
弁当は、業者に注文して配達もしてもらえたのですが、大工さんはみんな奥さんの作った弁当を持ってきていました。僕もそうなんですが、実はこの弁当 結婚以来 テンプレートがあるかのように毎日同じ感じでちょっと飽きもあったんですけど、大工さんが交換してくれるとかそんなこともありました。さすがに捨てて帰ることはありませんでしたけど 義母と交換してもらおうかと思って一度行ったら、あの子(嫁)の作った弁当とか食べられんとか言って断れたので、それ以来 頼みませんでした。
昼休みには長の大工さんがたくさんの話を聞かせてくれてました。
この頃は「にいちゃん」とか呼ばれてましたから僕は気にも留めてなかったけど
親分はちょっと不満のようでした。
弁当は10年ちかくこの形態で感謝はしてましたがさすがに 飽きてました。
それにしても、大工の作業場にあったストーブ毎日、冬の間 1日1缶くらいの灯油を消費する強力なやつでしたが、灯油を汲みに行くのも僕の仕事でこれも 大変でした。遠くに保管場所があるので2缶ずつ 1日おきに汲みにいってました。

前に書いたエピソードで 後に僕の師匠になるといった大工さんがいるのですが、いつもは○○さんと呼んでましたが いつのまにか親分と呼ばないといけないように廻りの雰囲気でなってきました。元れんが工でこの人も、大工さんに転向してます。でも、れんが工としても、一職人さんなので僕とは違います。なのでこの人のおかげというかこの人のせいで 仕事の種類が多かったんだと思います。
そもそも、大工さんが解体工事でブレーカーをもってやらないです。でも この親分のおかげで僕も目立たなかった人から 目立つ人になれました。しかし、全てにおいて中途半端で終わってます。その職種のエキスパートにはどれもなれなかった事です。
とりあえず、どんな仕事もやって そつなくこなすので便利がられて自分で自分の首を絞めてるようなもんでした。
事務仕事も、グラインダーの修理(ベアリングの交換とか)れんが工の仕事が間に合わない時は、応援(がんばれ~とか声援じゃないですよ)としてれんが工の仕事もやってました。なので、通常5年の養成工の期間を異例の4年であけてもらいました。
職人としての仕事が中途半端にしかできてないので 年があけても職人になったとは恥ずかしくて言えなかったです。

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