2018/03/19

1963年生まれの高校生になりましたの記憶

1979年4月、無事高校に入学しました。
工業高校の電気科です。クラスには40名で電気科は2クラスでしたので80名いたはずです。同じ中学から同じクラスになったのはひとりだけです。午前中は9時から3時間、午後から3時間で15時30分には終わります。1学期の間は、小学生以来の学級委員に任命されました。わりと成績がよかったようです。
この高校は県立の高校でしたが、1年の間は中学の時のおさらいみたいな授業でしたので特に必死に勉強しなくてもよかった感じです。

問題は1年生の1学期にある 伝統の上級生による指導です。
当時は、「しごき」と言われてましたが 要領のいいやつも逃れられない学校公認のものです。
授業がおわる休み時間近くになると 主に2年生ですが 廊下で今か今かと待ち伏せてました。
担任からも、乗りきるように説明がされます。「がんばれ」とか
休み時間になると大きな声をあげて 教室にはいってきます。
そして あいさつなど一連のことを新入生にやらせます。
一部、2年生の中に知り合いの新入生がいたりすると 教室から出してもらえますが、いつもそうはいきません。
これは、毎休み時間に1学期の間 ずっと行われます。

途中、歓迎遠足が1学期の中であるのですが それで終わりということになっているのですが 記憶では夏休みになるまであったような気がします。
遠足は欠席禁止と言われてました。
グラウンドでは野球のフェンスの金網に登らされて セミの鳴き声をやらされたり、あちこちで大きな声が轟きます。
この光景はよくみました。一度はやらされます。
同学年には女子はひとりもいなかったのですが上級生に二人ほどいたと思います。女子はこのしごきには参加してないと思います。

高校1年といっても、まだ中学生の時のなごりがあって顔も幼いし、身体も細いですが、体格のいいものはかなり 有利でした。
自分も体格というか身長が180ありましたから 先輩のほうが小さい人がほとんどだったので、あまり声を掛けられなかったほうです。
しかし、この伝統は翌年以降たしか禁止なってますから、自分等はそのしごきをやってないはずです。隠れてやってた者もいました。

通学は、自分の自宅がちょうど悪いところにあって距離が3km未満で、バスや電車は通ってなく 自転車か徒歩しか選択肢はありませんでした。
バイクは、距離が近すぎるので禁止でした。まぁバイクの免許は秋にならないととれないのですが。
自転車で最初の頃、行くつもりでしたが坂を上って下りを3回くりかえさないといけないので、自転車でも歩いて上らないといけなかったのでほぼ、徒歩でした。今みたい途中に自動販売機とかいっさいなかったので結構 喉乾いてました。学校にある飲水機だけです。
今、その通学路を通ってみると まずバスが運行されているし何ヵ所も自販機が設置されて コンビニやスーパーなどもできてます。
通学途中、ボタ山ばかりの風景だったのが変わってしまっています。
上ったり下ったりの道は全然変わってませんけど。
身長は中学からほぼ伸びてません。
中学の時は、坊主頭だったので野球部以外 髪を伸ばしはじめます。特例もいましたが。靴は「ちょん靴」かかと踏み履きか、学校指定の靴青いラインがはいったものをほぼ みんな履いてました。カバンは「ちょんバック」と言われたものですが、ほぼなにもはいってません。食べ物くらいです。
 抜き打ちで服装検査があり、実際は持ち物で 「たばこ」が発見される者もいました。即謹慎になるので 1週間ほど「自宅待機」になります。
僕も一度、服装検査で髪の染色で謹慎となり、真っ黒に染めるまで学校に来たらいけないという事がありました。
工業高校でしたので、実習服というものがあって いつ来ててもよかったのですが、ちょっと寒いときとか、それで通学してくる者もいました。あと、体操服があったのですが、今でいうとトレーナーとスェットみたいなデザインで 楽なので、そのままの者もいましたが、油断すると下は うしろからズリ下ろされて脱がされてしまうので、警戒しとかないといけなかったです。夏用の体操服は次回紹介します。
日数が経つにつれて みんな学生服が乱れてきます。
ズボンは「ボンタン」とか「ヨコスカ」とか呼ばれていたものを みんな履いてましたが 一部、ズリ下ろして履く方法の者もいました。
学生服の下は、基本Tシャツかトレーナーでした。

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