2018/03/13

1963年生まれの中学部活の記憶


時は、1970年代後半です。(ちょい長めの文章になります)
中学に入学すると すぐにバレー部に入部しました。
まぁ一学期の間は、3年生がいたので来る日も来る日も 球拾いでしたが夏休みの始めに夏の大会があったのでそれまでです。
本格的に練習を始めれたのは それからでしたが10月に2年生メインの新人戦があります。
2年生は4人しかいなかったので 1年生から、背のひくいやつが セッターに選ばれあとひとりは、アタッカーなんですけど
打たせてもらえるのはわずかなのでレシーブのうまいやつが選ばれました。
当然、自分は補欠のままで ラインズマンと得点をめくるやつに行っただけですけど、この新人戦 近辺の地域の大会で優勝してしまいました。
母校では、快挙でした。終わったあと優勝の賞状と全員で写った記念写真を額に入れ校長室の廊下の前に飾るという学校でした。
歴代のこのような快挙は飾ってあります。

問題は、優勝したからそのあとが大変でした。春の大会と夏の大会があります。負けられないという事で練習が厳しくなったからです。
月曜から金曜までは放課後、7時8時。当時は土曜日は半ドン(午前中の授業だけでしたのでこういう言い方)なので みっちり夕方まで練習。
試合前になると家に帰るの10時とかになっていました。春の大会は6月くらいだったので、すでに自分も2年生ですがこの大会も優勝だったと思います。この時も補欠なんですが、エースの3年生が最終の試合途中 足がつり急遽サーバーとして出ることになったのですが3セットマッチで1セット取られ3セット目の14対9とか大ピンチの時でした。
サーブは 当時2回まで打てたので、1回目は失敗しても大丈夫ですけどまずは 思い切って打つという事を教えられてますので何も考えずに打ちました。なんと、サービスエースを続けて14点まで追いつくことが出来たのです。
ジュースなのであと2点は3年生のアタックとかで、勝つことが出来ました。
のちに この事で新聞記事になり、夏からキャプテンになるきっかけになり苦悩の日々を送ります。
3年生の先輩達最期の夏の大会は夏休みに はいってすぐにはじまります。夏の大会は実は体育館ではなくて 外で行われます。この過酷な状況は自分が3年になっても行われました。次の年から廃止になりました。
なので、練習も外メインになります。太陽が照りつけ日焼けし また風が吹くとボールがそれたりと色々、大変でした。特にレシーブする時も体育館では気持ちよく飛び込んでレシーブしてもスーっと滑るのですが 外の小石がゴロゴロしてるところでは ゴリって感じで音がして滑りません。そしてあちこち傷だらけになります。
ちなみに夏の外で日焼けしたあとは、中途半端になるのが悩みの種でした。靴下やサポーター、はちまちの部分。それに着てる部分は日にやけないから裸になるとこんな感じです。
メンバー全員こんな感じ。たぶん女子も。プールとか海に行くと相当恥ずかしかったです。
でも、時が経てば楽しかった思い出と共に後悔もあります。もっとなんで練習して強くならなかったのかとか。まぁそれは先輩がいなくなってキャプテンになった時に自分を甘やかしてたからなんだと思います。
この夏の大会は2位でした。次の新人戦は自分らのメインのチームになりますが3大会とも優勝は逃します。最高2位であとは4位と3位。とりあえず夏の大会が順位が上だと次の大きな大会に出れるのですが、ここで勝てれば県大会にいけます。
しかし、うちの中学は県大会にいけるほど強くはなかったです。
中学の部活のメインは3年の夏休みで終わります。残りは後輩の練習の手伝いをしたり 実際には用なしになります。高校受験を頑張って勉強しろということになります。
話は1年生の時にもどりますが、ある日 1年生同士で 女子(相手も1年生)と練習試合をすることがありました。実は男子はそんなにバレーボールとかやったことない連中だったので 試合をしてもストレート負けしてしまいます。身長は男子のほうが断然大きいのですが 女子はよくレシーブします。なので女子は男子より強いって見下してみられていた事を バレーをやめてから女子のキャプテンだった子から知らされます。
僕はチームの中で一番バレーが上手くて キャプテンになったわけじゃないので(顧問の先生からも言われた)そのことが優勝できなかったと思ってました。女子のキャプテンは一番上手くて レシーブの見本にしろと 顧問の先生からもいつも言われてましたから一目置く存在でした。彼女はクラスが同じだったけど、引退してから結構仲良くなり 受験勉強会とかクリスマスパーティーとか数人に集まってやる機会には 一緒に遊んでました。
そのときに キャプテンの苦悩を聞かされて 自分の甘さに気がつかされたわけです。
ちなみに 当時の流行りというか運動着(スポーツウェアとかいわない)について
練習してるとひざがすぐ破れるので下だけ買換ました。
学校では、専用の体操着というものはなくて まぁみんな同じようなものでしたが、というか選択肢がなかったと思いますけど男女共に上は白の体操着(同じもの)下は 男子は白の木綿の短パン、女子は紺色か黒のブルマでした。冬は男子の短パンが長くなったズボンという感じでしたが、 ジャージというものが登場します。
テレビドラマで 山口百恵ちゃんの「赤い衝撃」でドラマの中で着ていた 黒のジャージでオレンジのラインがはいったものに注目がいきます。
早速、バレーの練習着に百恵ちゃんの着ていた偽バージョンと緑のジャージを買ってみました。メーカーは忘れたけど ミズノかタイガー(今はアシックス)だったと思います。靴とソックスはチームではミズノで揃える事になってましたが、僕にはミズノの靴は合わなくて 爪がハガレる事態になりましたので ひとりだけタイガーの靴でしたけど。ミズノは緑色が基調でしたけど タイガーは赤なので多分試合や他校の練習試合では 影でなんであいつだけ違うんとかいわれたようです。
ポイントはジャージの下にゴムがついてて足にひっかけって履くようになってたんですけど これはこれで 動きにくかったです。しまいにはみんなゴムをハサミで切って折り返してはいてました。それから、ソックスがずり下がらないように 新発売の「ソックタッチ」をみんなこぞって買ってました。
それから 男子だけの問題でもあった短パン。これも最初の頃は股上も短くてすぐに おしりの縫い目の糸が切れて破れる事もしばしば。
極めつけは、「はみちん ポロリ」です。女子も練習をそばでやってるので。
短パンは、新型になって股下が長くなり 両サイドにゴムが装備されたので太ももに密着する形になったので短パンは問題解決したのですが、ユニフォームの下は、スカートはいてるみたいに広くてこれは 先輩共々困ってました。
今みたいに、サッカー選手とかはいてるスパッツというものが存在してなかったので。(サポーターパンツというのはありました)
なので 最初は短パンの上に重ね履きして試合に臨んでましたが、体育の水泳の授業で使う海水パンツをはくことになりました。
圧倒的に女子のほうが守備力がよかったです。

部活とは別に、全員参加のクラブ活動というのもありまして、バレーの練習の時は隅っこで卓球の練習をしてるところにボールが飛んでいって迷惑をかけてましたけど クラブ活動は卓球をやってました。めちゃくちゃ下手くそです。ラジコンクラブに入りたかったけど バレーの顧問の先生が担当なのでこんな選択でした。

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